3月号 2018年
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伊藤伊那男作品主宰の八句今月の目次銀漢俳句会/3月号 銀漢の俳句伊藤伊那男
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◎袋廻しと尻取り俳句 過日、超結社の12人ほどで秋田県増田町の日の丸酒造を訪問した。「まんさくの花」の銘柄で近時人気の酒を醸している。この旅は銀漢亭の客でもある句友のIさんが蔵元と懇意なことから計画してくれたのであった。増田町は横手市に属し、秋田でもとりわけ雪が深い山間部である。11月下旬の新幹線の車窓は盛岡あたりから雪景色に変わった。増田町はいくつかの街道が交差する要衝の地で往時大いに繁盛したという。家の中に蔵がある独特の家屋が街道に軒を連ねている。つまり幾つかの蔵を含めた家全体を更に大屋根が覆っている重層家屋群である。その内蔵の造りは精緻を極めており、たとえば蔵の外壁の漆喰の仕上げは雲母の粉末で研いで光沢を放っている。蔵の中は倉庫ではなく賓客を迎えたり、祝宴をする座敷である。初期のものは柿渋を塗ったというが、大半は漆をふんだんに使った豪華な造りである。そのような蔵座敷で句会も開かせて貰った。 酒蔵見学であるから、夕方からは宿で酒を飲み続ける。食後「袋廻し」をやろうという。誰かがちゃんと封筒を用意しており一枚ずつ渡される。表に自分の考えついた季語を書き、一句作って封筒の中に入れて右隣に渡す。左隣からは次の封筒がきているのですぐ作句する。一、二分の制限時間なので10人いれば20分位で10句出来上がるのである。私は袋廻しはあまり好きではなく、10年振り位に参加したのだが、瞬間の芸なので、本人も予想もしない発想の句が稀に生まれることがあることは知っている。 翌日の帰路の新幹線の中で「尻取り俳句」をやるという。それは誰かが一句を出し、その下五が「雪催ひ」であったとすると、次の作者は「ひ」から始まる一句を作る。そのようにして一周すると次は、最後の下五が「雪催ひ」であったとすれば「よひ」の二音を使って始まる一句を作る。三周目は最後の三音「もよひ」で始まる一句を作り、それが続いていく。四周目は「きもよひ」の四音を上五にして始まる句ということになり、だんだん制限が強まっていくのである。酒をかたわらに苦吟を重ねて四音までの尻取りが青色吐息の中で終了したところで、新幹線は東京駅に到着したのであった。 袋廻しは多少の効用があるが、尻取り俳句は俳句の実力向上にあまり効果が無いのではないか、というのが私の結論である。ただし多作多捨ということも大切であり、楽しい遊びでもある。皆さんも一度は体験してみたらよいのではないかと思う。 |
先生は斎藤茂吉を敬愛しており『芭蕉と茂吉の山河』の著作もあるし、茂吉を詠んだ句も多い。当然ながら茂吉縁の地も度々訪ねている。この句は戦時中茂吉が疎開していた大石田の弟子、板垣家子夫宅訪問時の属目。裏の土手に上ると眼下に最上川が流れている。そこに虎杖が繁っていたのであろう。「手に余し」がいい。時を経て私達が大石田へ行くと言うと、先生は是非板垣家を訪問するようにと仰るので訪ね、ご子息の歓待を受けた。 (昭41年作『銀山』所収) |
丹沢は東京に近い山塊。私は登山をしている頃、度々登った。登山口から山頂までの標高差は千メートル位あるので登り甲斐がある。山のあちこちの襞には温泉も湧き、猪鍋なども出る。伊豆半島が日本列島に衝突して隆起した山で、小田急線から全貌が見える。日当りの良い山で、句にあるその日は紫色に煙っていたのであろう。類型句はあるかもしれないが、やはり真正面から詠んだ形も調べも良い句である。固有名詞も動かないし、薬喰の取り合わせで、この山の冬の有り様も美しく切り取っている。俳句という表現方法の一つの典型句といってよい。 |
教会堂で蝋涙が垂れていることは一年中あることだ。だがこの句のように「十二月」と断定されると、おのずから深い意味を持ってくるように思われる。クリスマスという降誕祭は太陽の復活を祝う冬至祭が根底にあり、人類にとって極めて重要な月であるからだ。一年間の感謝の涙と、新年の祈りの象徴としての「蝋涙」ということになろう。 |
宇陀郡の葛工場を訪ねたことがあるが、あの武骨な葛の根を叩いて晒すことを何十回も繰り返し不純物を除いていく。その精製の極致に出来上るものである。だからこそ「透明な脳でゐる」という表現に納得するのである。ただし俳句的であるな、と思うのは「一日」と付け加えた点である。飲んだその一日、というところにおかし味が加わるのだ。 |
私の子供の頃は褞袍が必需品であった。暖房設備が行き渡った現在ではほとんど見かけなくなったが、古い温泉宿などで出されて、懐しい思いをすることがある。作者のまわりには褞袍愛好者がいるのであろう。綿が入っているので簡単に洗うわけにはいかず、干すのであろう。「湿布の匂ふ」に現実味がある。少し情け無い雰囲気が出たところが、味わいである。 |
ごった煮の代表であるおでん鍋を面白く詠みとめた句だ。丸は大根、つみれ、がんもどき、……、三角は厚揚、巾着、蒟蒻……。でも、それだけではなく、この句からは食べる側の人達にも想像が及ぶのである。性格の丸い人、角のある人……そのような人たちが鍋を囲んでいる様子が目に浮かぶのである。 |
聖夜劇の子供達の生態を詠んだ句は沢山あるが、この句は類型を越えて生き残った句である。おとなしい筈の羊でありながら、一人だけ台本通りに動かない羊役がいる。羊仲間に体当りをしたり、動かなかったりしているのであろう。自分の子供であったらはらはらし通し、という場面であろう。 |
城下の直角に曲る道の様子などを捉えて見事。 |
確かに剥くときは刃元(・)。「透かせて」がうまい。 |
柿落葉の美しさは特別で、ついつい残したくなるものだ。 |
「冬帽子」の斡旋で年齢の積み重ねなどにも思いがゆく。 |
厚手のものであるだけに少し時間がかかるのだ。 |
寒菊の最後の最後の美しさ。「ひと叢に」が的確。 |
孫というものはともかく元気であれば、それだけでいい。 |
ささいな事にも楽しみを見つける。これが俳句。 |
彗星集は通常20句を選句することになっている。3月号には268句出句されているのだが、今回はギリギリ好意的に選んで14句しか選句できなかったことは残念である。参加するということはもちろん大切だが、やはり出すからには全力で選者に挑戦するつもりで投句してほしいものだ。「彗星集」であるから、日頃の自分の殻を破るような実験的な句を出して貰ってもよい。新しい自分の方向を探るような句を作ってみてほしい。 |
伊藤伊那男
年末に私も同道した吉野の嘱目である。蔵王権現に近い宿で、吉野建といって、一階が玄関と広間、その下に宿泊の部屋、その下に風呂がある、というような懸崖造りである。その風呂には柚子が浮かんでいた。「禊めく」の措辞が手柄で、修験の地吉野の地名が動かない。私は<吉野建てふ階下なる冬至風呂>と作ったが、政三句の方が断然いい。同時出句の<飲み干せぬ最たるものの葛湯かな>もどうしても容器の底に残ってしまう葛湯の粘りを詠み留めて類例がない。私は<葛湯吹く蔵王権現まなかいに>と作り、点を集めたが、熟練者ならだれでも作れるタイプの句であり、政三句の方が玄人好みということになろう。 |
マヨネーズは万能である。例えば奇跡的に助かった登山の遭難者が携帯していたチューブ入りのマヨネーズを舐めて命を繫いでいた、などという話を耳にしたことがある。調理でも和洋中、おおよその料理に合わせられる勝れものである。西洋のマヨネーズは瓶詰が多いようだが、日本はチューブ入りが中心。いつでもすぐ使えるように「逆さ立てて」冬籠りに入る。その視点がユニークで楽しい句になった。同時出句の〈突ついたところの凹む海鼠かな〉も感心した作品だ。余分なことは言わず、観察した「物」の生態だけを詠んで詩に昇華したのである。 |
根室辺りの嘱目であろうか。ロシアの漁船が蟹や鱈などを下ろし、中古車や家電製品などを積み込む。長い航海のことであるからウォッカの空瓶も多いであろう。半分は空想が混じる句であろうが、ウォッカを配したことで臨場感を深めた。小林多喜二の『蟹工船』の場面なども彷彿させる物語性がある。 |
私の育った時代の主婦は本当に忙しかったものだ。家電製品は未発達であったし、ガスや電気も惜しみ惜しみ使う時代で、セーターやマフラーなども母の手作りであった。家事の合間を縫って毛糸を編む。そのような姿を「細切れの時間をつなぎ」と表現したのは見事、という外はない。あの時代の主婦の姿を余すところなく描き切った。 |
信州には「ななかまど」が多い。晩秋には葉も実も鮮烈な赤一色となる。木質が固く、七度竈に入れても燃え残ることからその名があるという。そのななかまどを配して、信濃とは言わず「一茶の国」と言ったところがミソで、一茶の頑固さを象徴しているのである。 |
久々に故郷に帰ると、昔馴染んだ建物などが思いの外小さく見えて不思議な気持ちになることがある。自分が小さかったからであろうか。あるいはその後さまざまな見分を重ねたせいであろうか……。誰もが感じるそのことが俳句という形になったのである。周辺の木々の葉も落ちた時期でもあり、尚更小さく見えたのである。「冬日和」の取合せがいい。 |
多分能登の風景なのであろう。日本海の強風がまともに吹き付ける土地柄だけに風囲は能登の風物である。低いけれども三方は山という描写もよく、孤高の集落の様子が簡潔に表出されている。 |
新潟市の護国神社境内の側面は急な斜面となって日本海に落ち込む。私も冬に訪ねたことがあるが怒濤が振動となって身体に響き、恐怖さえ覚えたものである。句の坂口安吾は新潟出身の反骨の小説家。「吼えつづけ」にその生涯を重ねているのである。余談ながら安吾は日本古代史にも造詣が深く、独特の見解には舌を巻いたものである。 |
お父上をなくされたと仄聞した。その場面と知ると尚更感慨が深い。抑えに抑えた父上への哀惜の情が染み出ているのである。「寒がりの」に万感の思いが籠められており、その措辞により、父上の人物像が一層偲ばれるのである。 |
その他印象深かった句を次に
この取合せならば、やはり久女忌なのだな、と思う。一葉忌でも多佳子忌であってもそれなりに通用はするだろう。だが、句意をじっくりと嚙みしめれば、この取合せの中に久女の生涯が籠められていることに気付く筈である。「抽斗が嚙む」に久女の円滑でなかった人間関係が象徴的に捉えられている。「帯締め」にあの名句〈花衣ぬぐや纏はる紐いろいろ〉を読者は思い出す筈だ。決してムード的な取合せではない。そこに熟練の技が覗くのである。同時出句の〈寒柝を打つたび罅の入るとばり〉の感覚の鋭さ、〈一日の枷解くごとく足袋を脱ぐ〉も「枷」に、緊張感を持った一日の終りが見事に描き出されている。 |
私には懐かしい句である。丁度大学一年生の終りの頃であった。学生運動がピークに達していた時で、いよいよ東大に機動隊が突入するというその日、私は歴史の一場面としてこの目で見ておこうと、本郷近辺を徘徊したものだ。「冬帽子」という季語である「物」に世相と青春の季節と思い出が籠る。同時出句の〈福耳の少しはみ出す冬帽子〉も同じ冬帽子を詠んで別の味わいを醸し出している。 |
いつの頃からか、私もやらなくてはならない事は全部メモにして持ち歩き、消していく習慣である。年末ともなれば特にメモの量も多い。「一つ消しては」に年内にこなさなくてはならない仕事の多さがよく出ているようだ。同時出句の〈木枯と共に届くや喪の便り〉の抒情のよさ、〈色じみのまだらになりぬ札納め〉〈一枚の軽さに揺るる古暦〉のきっちりした写生にも感心した。 |
なるほど、障子貼りは子供の頃毎年手伝わされたが、確かに表と裏はきちんと合わせなければならなかった。手ざわりが違ったように覚えている。この句はそれを比喩にして「言葉にも」、と人事句に持ち込んだのである。そこに作者の興味の有り拠があり、表現の面白さがある。 |
この「紅白」は猪肉の薄切りの一枚の中に脂身と赤身が見た目にも鮮かに分かれていることの表現である。このような肉がうまいのである。花弁を重ねたような盛付けを崩していくのだが、それを「花冠解かるる」と詠んだのも美しい。読者が食べてみたい――と思う所まで表現できているのだ。 |
「風呼ぶやうに」が句の眼目。日照時間の短い冬の日を集めて早く干し上げたいという作者の気持がよく出ているのである。日差しだけではなく、風の力も借りたい、というところがいいのである。 |
何だかタイムスリップして幕末の時代を見ているようでもある。富士山信仰が盛んであったので、江戸の各所に富士塚が沢山あったようだ。その風景の中に「零れ雀」を配したことで、まるでその雀が一茶の分身のようにも見えてくる仕掛けである。おのずから〈われと来て遊べや親のない雀〉などが胸に浮かぶのである。 |
ああ、私も、と肯く句である。小さくなった石鹸を捨て切れず重ねておく。だが年末ともなれば、使い切って新年は新しい石鹸で迎えたい――というところであろう。そんな気持ちが「年の暮」との取合せで詩になったのである。同時出句の〈曲家を伝ふぬくもり納豆汁〉も「伝ふぬくもり」に曲家の様子がよく描かれており、何よりも「納豆汁」という季語の斡旋が見事である。 |
同音の「とうじ」を二つ使い分けたところが俳諧味である。冬至湯で暖まってから帰って、正月を迎えようというところであろうか。決して駄洒落で終らずに、いい味を出した楽しい句である。同時出句の〈半玉の座るが如く冬牡丹〉の「半玉」の比喩、〈むささびも千年跳ぶや中尊寺〉の「千年」措辞、と各々にうまさを見せた。 |
伊那男俳句 自句自解(27) 仏壇のちさき障子を貼りにけり
超結社句会「塔の会」の席題で作った句だと思う。当時は金融会社の取締役をしていて多忙であったが、この句会は休んだことはなかった。本名でなく俳号の「伊那男」で、本来の自分を取り戻せる日だという思いがあったし、何よりもほとんどの会員がすでに俳壇で名のある方々であり、上段者に試合を挑むような、闘志を燃やす機会でもあったからである。席題で五、六句は作るので、締切直前まで真剣勝負であった。並の発想では取られるわけが無い。どこにどう障子を貼るのがいいのか……あれこれ過去の旅の場面などを回想する。すると、扉が小さな障子仕立ての仏壇をどこかで見たことを思い出した。この句はその句会でも評判が良く、「障子貼る」の季語では珍しい発想の句だとして、後日総合俳誌でも取り上げられた。俳句作者はあらゆる機会に句材を頭の中に蓄積することが大切だ。それが漢方薬店の小簞笥のように整理されていれば、いつの日か役に立つものだ。 木菟鳴いて義仲の山暗くする
私の故郷、伊那谷の駒ケ根市と隣村との間に、木曾山脈を源とする大田切川が貫流している。平安時代末期、平家の勢力がここまで及び、菅(すが)ノ冠者(かんじゃ)が大田切城を築いて、守っていたという。大田切の名前の通り急流で、以後の歳月の間にその砦の半分は削り取られてしまっている。さて治承四年秋、源頼朝が伊豆で兵を起すと、それに呼応して木曾義仲が挙兵した。諏訪大社が源氏方を支持したこともあり、勢いを得た義仲は、一説には木曾山脈(中央アルプス)を越えて伊那谷に雪崩れ込んだという。もし本当なら軍隊として三千メートル級の山を越えた珍しい例になるのだが……今も空木岳の横に木曾殿越えという鞍部がある。私の郷里は攻められた側であるが、私は心情的に義仲が好きで、度々義仲の故地を訪ねている。木曾は両側を山に囲まれて、日の出は遅く、日の入りも早い。一瞬の光芒を救ったものの悲運の生涯を辿った義仲と木曾の地形を詠み込んだつもりである。 |
12月 12月17日(日) 終日家。原稿書きや礼状など。鮪刺身、鮭一塩、大根サラダなど。酒は獺祭磨き三割九分。 12月18日(月) 店、「演劇人句会」あと6人。池田のりをさん、三輪初子さん。 12月19日(火) ひまわり館の「萩句会」の選句へ。あと12人。店にて忘年会。会員から「毎日俳壇」の選者による今年の秀句欄で高野ムツオさんが私の〈土を出て土の一穢もなき蚯蚓〉をベストテンに上げていたと知らせあり。 12月20日(水) 高校同期「三水会」5人。「雛句会」12人、など。 12 月21日(木) 「銀漢句会」あと16人。青柳飛さんあと2日でロスへ戻ると。皆川文弘さん。 12月22日(金) 店の営業本年最終日。野村時代同期の畑中君の学習院時代の友人六名の会。洋酔さん最終日と聞きつけて来店して下さる。そこへ水内慶太さんも。うさぎさんも、宗一郎さんも、近恵さんも。 12月23日(土) 品川発8時10分の新幹線にて、「奈良すす逃げ吟行会」へ。快晴。富士山を仰ぐ。「崎陽軒」のシウマイ弁当が定番。半月程の休暇突入に緊張が解けて眠い眠い。京都から近鉄に乗り換えて大和上市駅(この間、西ノ京で吉村征子さんから柿の葉寿司の差し入れを受ける)。ここで25人集合。小型バスに来て貰い、天武・持統天皇の聖地、宮滝へ。好天。吉野の山々美しい。近くの醤油醸造所の仕込み蔵見学、買う。吉野の宿「一休庵」に荷を置き、蔵王堂、大日寺、吉水院を見学。葛湯も。18時、夕食。猪鍋。最後の雑炊を私が作る。好評。20時から5句出し句会。22時就寝。 12月24日(日) 6時半から皆は散策へ。まだ真暗。私は残る。9時過、奧千本までバス。西行庵を訪ね、中千本まで徒歩で下山。快晴。奈良の山々、熊野の山々、高見山などの眺望に感激。宿で昼食のあと、バスで飛鳥駅。朝妻力さん他、数名と合流し、天武持統陵を参拝。あと鬼の俎、鬼の雪隠、欽明天皇陵。15五時、「ホテルフジタ奈良」に荷を解く。句会までの時間、町の居酒屋で句を作ろうと入ると、何と、三村一さんが「先生! 」と。昨年、ゲストで来て下さった野村証券の先輩。無理矢理連れて「蔵」へ。30人の忘年会。茨木和生先生から、またまた、極上の鮒鮓到来。5句出し句会あと2句出し句会……。奈良は雨となる。 12月25日(月) 皆は春日大社の参拝へ行ったようだが私はホテルでぐずぐず。伊勢・河合真如氏の『日本神話の智恵――生と死の科学』を読み始める。8八時朝食。奈良茶粥など。9時発。石切剣箭神社へ。長い参道の商店街を下り参拝。大腸癌手術の折、京都の義母がお守りを送ってくれたことがあり、ようやくお礼参りを果たす。参道で屋久杉の勾玉のネックレスを記念に買う。戻って本宮も参拝。大阪の町を一望する。昼、京都に出て武田夫妻、大溝、花穂、羽久衣、井蛙さんと養源院の宗達の杉戸絵「白象」、後白河院の陵墓、豊国神社の鐘と耳塚、六波羅蜜寺、珍皇寺と巡り、16時、六波羅蜜寺へ戻り、念仏踊を見る。分かれて井蛙さんと「からすま京都ホテル」へ。18時、祇園富永町の「らく山」。W女史と待ち合わせて忘年会。料理が出るわ出るわ……。3時間ほど楽しむ。さすがに連日の強行軍と酒で疲労あり、二次会なしで宿へ。 12月26日(火) 9時間ほど寝たか。8時起。9時発。六角堂を見て、「イノダコーヒ 三条支店」に行くが開店前。「スマート珈琲店」にいくと行列。矢田寺に寄り、河原町の「インパルス」で朝食。卵トーストがうまい。京阪電車で出町柳。下鴨神社の手前の最近公開された「旧三井家下鴨別邸」に寄る。河合神社の鴨長明の旧跡。下鴨神社。賀茂川を渡り寺町へ入る。四条までずっと寺町を歩き通し、20ほどの寺を見たか。途中、京都御所を通った時、仙洞御所が一般公開していることを思い出し、訪ねてみるとOK。宮内省職員が一時間ほどかけて案内してくれる。眼福! 新京極の誓願寺で締めとする。15時半、「たつみ」で一時間ほど飲む。18時、「味野里香」。W女史、亡妻の従妹の川村悦子(京都造形芸術大教授、画家)と忘年会。 12月27日(水) 9時発。北大路今宮の「はしもと珈琲」で朝食。卵サンド旨し。風花が雪となる。船岡山を巡る。千本ゑんま堂を訪ね、閻魔像、紫式部供養塔などを見る。大極殿跡を廻って上七軒「芳月」で寿司の昼食。北野天満宮のお土居跡を見て、北野白梅町から嵐電で等持院。16時、聖護院の「河道屋養老」で養老鍋。23時、東京帰宅。 12月31日(日) 原稿書き。夜、家族揃ってお年取り。 1月 1月1日(月) 昼、家族年始の膳。夕方、杏一家来て12人の新年会。生牡蠣、からすみ、蟹鍋など。 1月2日(火) 11時、ポレポレ東中野にて、北村皆雄監督の映画「海の産屋」を見る。戻って、白味噌雑煮などで酒。昼寝。夜、河豚鍋。牡蠣の土手焼。鰭酒。 1月3日(水) 華子(中一)が宿題でどこかの博物館へ行きレポートを書きたいというので二人で上野へ。東照宮、清水寺などを巡り、「下町風俗資料館」を見学。南京玉簾の実演あり。あとアメ横を散策する小さな旅。 1月4日(木) 「銀漢俳句会 新年俳句大会」の募集句、500句超の選句。 1月5日(金) 店、12時半、毎日新聞「俳句αあるふぁ」編集部、中島三紀さん、カメラマンの武市さん来店。今年、連載の俳句と料理のカラー3頁の料理撮影。初会、3回分、後半四回分。7種の料理を作る。終ったあと、その料理を肴に3人で新年会。 1月6日(土) 朝から家族は越後湯沢へ。寒中見舞300枚ほど宛名書き。年末から仕込んだカラスミの干し具合順調。明日、新年会を予定していた水内慶太さん脳梗塞で入院とて中止に。今日は酒を抜く。 1月7日(日) 慶太さんのことが気になり早く目が覚める。9時頃、慶太さんから直接電話あり。今月の約束、すまん、皆さんに宜しくと。声はやや縺れているが、この調子なら快復早いのではないか……。と少し安心する。13時、中野サンプラザで「春耕同人句会」。あと10人ほどで「炙谷」、親睦会。道で「未来図」の新海あぐりさん他四人と会い、もう一軒。 1月8日(月) 終日家。句集、本の礼状。その他雑用の1日。明日から仕事スタート。夜家族スキーから戻る。 1月9日(火) 「火の会」初句会8人。「宙句会」あと15人。 1月10日(水) 発行所「梶の葉句会」選句。「きさらぎ句会」あと9人。てる緒さんの丸餅沢山を焼く。 1月11日(木) 発行所、島谷高水さんの句会。終って5人店。入れ替わり、屋内松山、西村麒麟さんなど 1月12日(金) 「大倉句会」あと19人。週に一度、家の清掃に来ていただいている中根さんから出身の三宅島のくさやを貰ったので、店が終わったあと焼く。 1月13日(土) 風邪すっきりせず。寝坊して10時の運営委員会に滑り込む。13時、ひまわり館にて「銀漢本部句会」。60名。あと「テング酒場」にて10人ほどの親睦会。 1月14日(日) 終日家。雑用こなす。カラスミに焼酎を塗って干し上げ終了。七腹。夕食でおひろめ。Good。第三句集のまとめスタート。 1月15日(月) 「演劇人句会」7人。皆川文弘さん新年の挨拶に来店して下さる。 1月16日(火) 井蛙さん元同僚数名と来店。この方たちと今年句会を開くと。山仲間だった今田園子さん。 1月17日(水) 藤森荘吉さんの「閏句会」7人。「三水会」(高校同期6人。武田禅次、坪井研治、池田のりを、木戸敦子さん(新潟)の「三田俳句会」のメンバーら。 1月18日(木) 「春耕俳句会」の「新年俳句大会」の選句。応募句850句ほど! 店、向かいのビルのテナントに入っている方、俳句を始めたいと来店あり。「銀漢句会」あと17人。 |