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2012年  1月   2月   3月  4月  5月   6月  7月    8月    9月 10月  11月   12月  

6月号 2011年

 伊藤伊那男作品 銀漢今月の目次 銀漢の俳句 盤水俳句・今月の一句  彗星集作品抄
 銀河集・作品抄 綺羅星集・作品抄 銀河集・綺羅星今月の秀句 星雲集・作品抄 星雲集・今月の秀句




伊藤伊那男作品



雛あられ

伊藤伊那男
溜息にこぼるる軽さ雛あられ
お見合を兼ねて呼ばるる雛の客
紙相撲しさうな吾子の折りし雛
三月尽く余震に耳をそばだてて
花衣脱ぐや子供にまとはられ
朱雀門出で天平の青き踏む
いらつめの挿頭馬酔木の花とせむ
末法の世のとば口を亀鳴けり                                 
                       














今月の目次





銀漢俳句会6月号







   



銀漢の俳句 

伊藤伊那男 

 ――子規の写生――
正岡子規の『病牀六尺』は、その死の二日前まで新聞「日本」に連載された随筆である。その中で明治35年6月26日の項(NO45)に、写生ということについて触れているので紹介してみたい。その趣旨を抜粋して箇条書きにしてみる。
1、写生といふことは、画を画くにも、記事文を書く上にも極めて必要なもので、この手法によらなくては画も記事文も全く出来ないといふてもよい位である。
2、画の上にも詩歌の上にも、理想といふ事を称へる人が少なくないが、それらは写生の味を知らない人であって、写生といふことを非常に浅薄な事として排斥するのであるが、その実、理想の方がよほど浅薄であって、とても写生の趣味の変化多きには及ばぬ事である。
3、理想といふ事は人間の考を表はすのであるから、その人間が非常な奇才でない以上は、到底類似と陳腐を免れぬやうになるのは必然である。
4、写生といふ事は、天然を写すのであるから(中略)深く味はへば味はふほど変化が多く趣味が深い。
5、理想といふやつは一呼吸に屋根の上に飛び上らうとしてかえって池の中に落ち込むやうな事が多い。
6、写生は平淡である代りに、さる仕損ひはないのである。さうして平淡の中に至味を寓するものに至っては、その妙実に言ふべからざるものがある。

 右は俳句に西洋画の写生の概念を持ち込んだ子規の考えがよく解る文章である。若干の解説を加えると、ここで言う「理想」とは、「主観」とか「想像力」とかに置き替えられるであろう。よほどの奇才でない限り成功せず池の中に落ちることが多いという。私は基本的にこの説が正しいと思っている。俳句は天然自然から真摯に学ぶ姿勢が大切である。
 同書の8月7日の項に「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造花の秘密が段々に分かって来るやうな気がする」とある。ここに子規の言う写生の本意が出ているのではないかと思う。もちろん先の文章の「類似と陳腐」という点で言えば、今や写生句にこそその危険性が満ちているのだが、それを乗り越えていかなくてはならない。






 








盤水俳句・今月の一句


  廃銀山馬鈴薯の花ここに尽く    皆川盤水



 「福島県伊達郡桑折町半田は、わが墳墓の地、往昔、半田鉱山ありき――」の前書がある。以前先生からその地は山津波のようなものが起り、今はあとかたも無いと聞いた。父上は常磐炭鉱の鉱山技師であったから、鉱山業に関わる家系であったのか、とも想像する。この句は第2句集『銀山』に収録されているが、題名からも望郷の句集であり、先生の北方志向、懐かしい日本探訪への指針が明確になった節目の句集である。「ここに尽く」に喪失した父祖の地への哀惜が籠る。同時作に〈羽抜鶏廃銀山は蚕飼村〉がある。(昭和50年『銀山』)










彗星集作品抄

伊藤伊那男選

種袋振ればせつつく音したる      杉阪大和
猫の夫駈込寺の門に鳴く        屋内松山
根の国へつづく虚あり老桜       谷口いづみ
鳥帰る世のことは世のこととして    田中寿徳
春泥に上澄の綺羅小谷城        飯田子貢
大石忌帰りの鐘の消防車        山田康教
山笑ふ背中合せの躁と鬱        權守勝一
まんさくや針山の糸からみ合ふ     吉沢美佐江
紅椿落ちて水輪の蕊となり       大溝妙子
鳥雲へ見慣れし山を飽かず見る     三溝恵子
春荒を捉へてゐたる鳶の舞       脇行雲
江の島に寄り道多し焼栄螺       住山春人
ブランコの鉄鎖の向ふ子の手かな    大河内史
土の香を解き放ちたる春田打      住山春人
やませ吹く渋民村尋常小学校      畔柳海村
のうのうと顔を剃らるる多喜二の忌   谷岡健彦
猫の尾の雀隠れをゆきにけり      五十嵐京子
踏青やむかし大奥なりし苑       權守勝一
お松明の火の粉払ひつ僧走る      白濱武子
急用と噓つきてゆく春ショール     谷岡健彦




  

彗星集 選評 伊藤伊那男

  種袋振ればせつつく音したる     杉阪大和  

 日野草城に∧ものの種にぎればいのちひしめけり∨があり、言い尽くされたかなと思っていたが、この句を見ると、まだまだ!名句の種は尽きないのである。種袋を振ると、中から早く播いてくれとと催促する音が聞こえてくるという。まさに「いのちひしめき」である。草城の句との違いはあくまでも「物」に執着した写生の技法に立脚しているところ。種を擬人化したところがうまい。           

 

  猫の夫駆込寺の門に鳴く       屋内松山

 歴史を絡め、また猫を擬人化した面白さのある句。駆込寺は縁切寺とも言われ、江戸期、妻が逃げ込んで一定期間勤めを果すと離縁が認められた尼寺。鎌倉の東慶寺と上州の満徳寺の二寺に限られたという。その寺に猫の恋を持ち込んだのであるから面白い。当然ながら猫はそこが駆込寺であることなど全く認識していないのだ。牡猫が「出てこい!」と門前で鳴き続けているという。寺と歴史に、何も知らない猫を配した諧謔の技。

 

  根の国へつづく虚あり老桜      谷口いづみ 

根の国は、死者がゆくとされる黄泉(よみ)の国のこと。桜の花は古来、日本人の心を揺すぶる特殊な花である。花狂いは日本人のDNAに組み込まれているようだ。だからこそこの句が成立するのである。黄泉へ通じる老樹の虚(うろ)——幽明の界にあるのが桜だというのだ。


  鳥帰る世のことは世のこととして   田中寿徳

 この句で言う「世」とは人間が生活をしている場ということであろう。さまざまな出来事があり、喜怒哀楽がある。渡り鳥はそうした人間世界のことは無関係に、季節が来ればおかまいなしにその地を去っていくのだ。有為転変、常ならぬ世、ということに読み手を引き込む句である。

 

  春泥に上澄の綺羅小谷城       飯田子貢

 小谷城(おたりじょう)は近江の国湖北、戦国武将浅井(あざい)家の築いた山城である。姉川の合戦後信長に禪殲滅された。長政の妻お市の方、茶々、お江など三姉妹の育った地である。その後の各々の人生は激烈であった。深読みかもしれないが「上澄の綺羅」はその投影であろう。固有名詞がとてつもない力を発揮しているようだ。

 

  大石忌帰りの鐘の消防車       山田康教

 変った句である。大石忌と消防車、言われてみれば赤穂浪士は火消装束に身をかためていたようだから、つながりが無いわけではない。一仕事終ったあとの消防車の鎮火を知らせる鐘が、討入りを果した大石の姿と重なるのである。

 

  山笑ふ背中合せの躁と鬱       權守勝一

 深刻な題材だが「山笑ふ」の季語に明るさと希望がある。

 

  まんさくや針山の糸からみ合ふ    吉沢美佐枝

 この花の捩れ具合に針山の糸を重ねた着想は出色。

 

  紅椿落ちて水輪の蕊となり      大溝妙子

 美しい瞬間を切り取った。「なる」と切る方がよかろう。

 

  鳥雲へ見慣れし山を飽かず見る    三溝恵子

 見慣れた風景にも微妙にある変化を見逃していない。


  春荒を捉へてゐたる鳶の舞      脇 行雲

 この季語をよく使いこなした。鳶の生態が生きている。

 

  江の島に寄り道多し焼栄螺      新谷房子

  見所が多く食物屋も多いこの島を的確に捉えている。


  ブランコの鉄鎖の匂ふ子の手かな   大河内史

  「鉄鎖の匂ふ」——そう!実感である。感性が豊かだ。



  土の香を解き放ちたる春田打     住山春人

 打つたびに土の香が立つ。農事の喜びがあふれている。

 

  やませ吹く渋民尋常小学校      畔柳海村

 啄木の名を伏せている面白さ。季語が絶大な力を発揮。


  のうのうと顔を剃らるる多喜二の忌  谷岡健彦

 拷問•虐殺された多喜二と自分との対比の明暗。


  猫の尾の雀隠れをゆきにけり     五十嵐京子

 楽しい季語だ。猫の子が連れ立って歩んでいるのか。


  踏青やむかし大奥なりし苑      權守勝一

  単に青草を踏むばかりではなく、歴史を踏む面白さ。
 

  お松明の火の粉払ひつ僧走る     白濱武子

  二月堂の床を鳴らす僧の臨場感。闇と火の競演を捉えた。



  急用と嘘つきてゆく春ショール    谷岡健彦

 意志の強い女性の姿が浮かぶ。心象を直截に表出した。



種袋











銀河集作品抄

伊藤伊那男・選

深草の少将の道亀鳴けり        飯田眞理子
囀の入れ替はりつつ膨らめり      池田華風
翳るたび影を奪はれ麦を踏む      唐沢静男
斑雪野の掘り起こされて土の艶     柴山つぐ子
そこにあることで足りたる春炬燵    杉阪大和
紐少し揺らせて蝌蚪の生まれけり    武田花果
島渡船おぼろの中をゆき合へる     武田禪次
雲の縁とみに明るむ二月かな      萩原一夫
苗札立つクイーンの畝も男爵も     久重 凛子
大利根の縁を野焼の火が齧る      松川洋酔
燭暗し踏絵の御子に無き目鼻      三代川次郎
西海の絵踏の島や波の牙        屋内松山














綺羅星集作品抄

鯛網や浜辺に踊る大漁旗        青木志津香
永き日を追ひ駆けてゐる岬馬      飯田子貢
安達太良の山彦出でよ卒業歌      伊藤庄平
訛ある間違ひ電話のどけしや      大溝妙子
春月や登りつめたる老いの坂      大山かげもと
踏石の一つ石臼梅日和         小川夏葉
リュートの音淡きうれひに春深む    尾﨑尚子
制服の肘の光れり卒業期        片山一行
心病み絵踏みのごとき日もあらむ    我部敬子
修二会中東日本大惨事         神村睦代
卒業を母の背中に報告す        川島秋葉男
玉の井のアパートの窓吊し雛      朽木 直
青梅のうぶげに宿る雨滴かな      畔柳海村
紙雛の傾ぐ背中を立て直す       小滝 肇
春の塵払ひて堕落論ひらく       權守勝一
本堂の閉ざされしまま牡丹の芽     佐々木節子
仔猫等の取つ組合うて睦まじき     笹園春雀
芽柳の一本縺れしまま吹かる      島谷高水
三枚の葉を解き香る桜餠        新谷房子
ひし餠の反りて来し罅入りて来し    鈴木てる代
地にあれば地に咲くごとき落椿     高橋透水
地震の夜の沈丁の香の強かりき     武井まゆみ
城下町町名こまごま雛まつり      竹内松音
白椿ひとりとなりて幾とせか      武田千津
日脚伸ぶつかまり立ちも始めしと    多田悦子
坂東の風の機嫌に草を約        多田美記
鱵食ふ銀の光を歯の刻む        田中敬子
折鶴の折り方忘れ春愁ひ        谷川佐和子
聖母像さしのべる手に鳥の恋      谷口いづみ
鷹鳩と化し童らに蹴散らさる      中村孝哲
吹かれ来る古巣壊れず又吹かる     花里洋子
永き日や吾が後ろ影見たきもの     藤井紘一
三光鳥湖に啼音を透すかに       松浦宗克
たんぽぽがレフトを守る草野球     松代展枝
馬車で浴ぶひづめの砂塵天高し     無聞齋
曇りても揺るるミモザの花明り     村上文惠
桜餅空晴れくるを頼みとし       村田郁子
古利根の水の明りや遠蛙        山元正規
膝頭寒のもどりに笑ひけり       吉田千絵子
家々のそのかまくらの燭点る      脇 行雲















銀河集・綺羅星今月の秀句

伊藤伊那男


深草の少将の道亀鳴けり     飯田眞理子

京都JR藤森駅か京阪墨染駅から少し歩いたところに欣浄寺がある。何の変哲もない小さな寺だが、道元禪師縁の寺であり、深草少将縁の寺でもある。少将はここから小野小町の許に通い、あと一夜通えば思いが遂げられる一夜前の九九夜目で死んだという悲恋の人。「少将通いの道」が残されている。実在の人かどうか不明な小町と少将の物語だけに「亀鳴けり」の空想的季語が効くのだ。同時出句の∧歌垣の地に鳴きをるは亀ならむ∨も同様に歴史や物語から題材を得ており、この作者の一特徴が出ているようだ。

 


  囀の入れ替はりつつ膨らめり   池田華風

 「囀」は求愛や縄張りを知らせる鳴き声。春の楽しみだ。この句、森か林かに来た小鳥が次には違う鳥の鳴き声に替り、また••••と入れ替りつつ声が増えていくというのである。「膨らめり」がうまいところで、春が深まつていくこと、囀が繁くなっていくこと、そうした時間の経過による変化を摑み取っているのである。同時出句の∧幸せのかたちさまざま目刺焼く∨も、季語が思い切り力を発揮している句。
何に幸せを感じるのか、読者は自らを顧みるのだ。


 

  苗札立つクイーンの畝も男爵も 久重凛子

 常にユーモア感覚を持ち、物事に興味を持たないと、こういう句は作れないだろう。ジャガ芋の銘柄にメイクイーン•男爵があり、そのことは皆が知っている。これを男女と見立てて、あたかも風呂の暖簾のように色分けしたところが面白いのだ。そもそもジャガ芋に貴族の称号が付いていること自体おかしいのだが、句はそれを更に増幅させた。


 

  燭暗し踏絵の御子に無き目鼻   三代川次郎

踏絵――残酷な行為であった。長崎周辺にはその踏絵板が残っているという。無数の足に踏まれて磨滅しているのだ。特に御子の姿は小さいだけに尚更なのであろう。「目鼻」と具体的に提示したところがよく、「燭暗し」には単に照明の濃淡だけではなく、作者の心象の投影が潜むのだ。 


 

  卒業を母の背中に報告す     川島秋葉男

 つくづく男の子の句だなと思う。女の子ならこういう報告はしないだろう。決して母を疎じるわけではなく、少し照れ臭いのである。微妙な母との接し方が描かれているようだ。吾が子の感謝の気持を母は背中で十分感じている。


 

  日脚伸ぶつかまり立ちも始めしと 多田悦子

下五の「と」は伝聞の助詞。つまり自分の子供ではなく、そういう知らせを受けたという意味である。姪子さんか甥子さんのようだ。人の子の成長は早いもので、這い這いをしていたかと思ったら、もうつかまり立ちだという。「日脚伸ぶ」の取合せにほのぼのとした愛情がある。


 

  永き日を追ひかけてゐる岬馬   飯田子貢

例えば下北半島の寒立馬――冬を耐え抜いて春日のなかにいる。この句のよさは中七の「追ひかけてゐる」の措辞。日の光ではないのだ。「日永」は昼の時間が長いことであり、本来追いかける種類のものではない。それをわざとこう言ったのは、少し危険な表現ではあるのだが、この季語の持つ幾分か気分的な季感を強調したからなのであろう。


 

  聖母像さしのべる手に鳥の恋   谷口いづみ

中七の表現が手柄である。空に差しのべたマリアの手に番の小鳥が来た。睦み合っているのだ。聖母像であることがポイントで、生きとし生ける物に対して慈悲の手がさしのべられているのである。「鳥の恋」に俳諧味を持たせた。


 

  鷹鳩と化し童らに蹴散らさる   中村孝哲

  正確には「鷹化して鳩と為る」。古代中国の七二候の一つ。すなわち二四節季の啓蟄の第三候。俳人好みの季語である。春のあたたかな日差しの中で獰猛な鷹も温和な鳩に変身してしまうというのである。そしてこの句では子供達に蹴散らされている。あの鷹が!上質で洒落た句となった。
 

その他印象深かった句

  
翳るたび影を奪はれ麦を踏む     唐沢静男
そこにあることで足りたる春炬燵   杉阪大和
大利根の縁を野焼の火が齧る     松川洋酔
西海の絵踏の島や波の牙       屋内松山
心病み絵踏のごとき日もあらむ    我部敬子
紙雛の傾く背中を立て直す      小滝肇
春の塵払ひて堕落論ひらく      權守勝一
たんぽぽがレフトを守る草野球    松代展枝



 











 


星雲集作品抄

伊藤伊那男・選

防風を掻き分けてまた砂の風    西原 舞
生涯にひと日はながき春の地震   有賀 稲香
ふらここへ遊び足らざる風が乗る  堀内 清瀬
春の暮浅草にゐてナポリタン    松崎 逍遊
あめんばう浮雲とゐる水の上    松崎 正
引鶴につうもをるらし棹の中    山田 康教
黒々と建国の日の大鳥居      谷岡 健彦
槍投げの槍投げられて土筆の野   北澤 一伯
花衣吊るし心も解かれゆく     島 織布
国引きのごとき引潮鳥雲に     原田 さがみ
畦焼の煙の匂ふ野良着干す     中野 智子
石鹸の泡立たぬ夜の余寒かな    伊藤 政三
道端に空の欠片のいぬふぐり    山下 美佐
春の鯉埴輪のやうな口開く     有澤 志峯
しばらくは堰に親しみ鴨引けり   上田 裕
早春のふるさとの土黒かりき    相田 惠子
用水の流れに揉まれ蝌蚪育つ    秋元 孝之
春雨や車窓のくもり甲で拭く    穴田 ひろし
玉椿褒めつつのぞく垣間越し    荒木 万寿
つまづきて風船空へ落したり    飯田 康酔
重ねおく素焼の小皿風光る     五十嵐 京子
辻説法聞き入るやうな蕗の薹    市毛 唯朗
一斉に辛夷の蕾天を突く      今村 八十吉
ひと筋の航路は春の雲となる    岩崎 由紀
斑雪野の光の中に子等の声     植村 友子
愁ひなほ山茱萸明りに佇ちたるも  大木 邦絵
提げ行くに程良き重さ桜餅     大河内 史
大震災祈るだけなり春何処     大西 けい子
二月の脱兎のごとく行きにけり   大西 真一
五線譜のなき御詠歌に春暮るる   大野田 好記
雪わけて去年植ゑし芽を確かむる  岡村 妃呂子
石垣に栄華の跡や遠霞       小坂 誠子
椿落つ確かに音のしたやうな    尾崎 幹
今朝の庭諸手に遊ぶ春霰      鏡山 千恵子
小魚の跳ねて野川は水温む     亀田 正則
風つくり風をむかへて夏暖簾    唐沢 冬朱
目刺焼き皿群青に整へり      北原 泰明
高みより降りいそぐごと忘れ雪   木部 玲子
雛飾り巡る町屋にはや日暮れ    柊原 洋征
子を捜す母の背中に風光る     黒岩 清女
虹追ふも追ひつけぬまま消えにけり 黒河内文江
天龍の河清を待たん梅雨に入る   小池 百人
春の川交はるあたり賑はへり    こしだ まほ
蛙の音寄せては返す夜のしじま   小林 雅子
むらさめに水輪つながる代田かな  小松 葵
香焚くや長閑けき春の武家屋敷   阪井 忠太
仏の座膨らむ光集めをり      佐々木 終吉
復活祭オルガンの音に鳩の舞ふ   佐々木 美智子
父母の歳越して八十路に春を待つ  佐藤 幸子
人を待つ遠まなざしや花曇     三溝 恵子
落ちてなほ太閤椿威を持てり    白濱 武子
めんどりの羽からひよこ春うらら  杉本 アツ子
学舎の子供の数のクロッカス    鈴木 淳子
蜆汁今日の歩みも確かなる     角 佐穂子
唇にうぐひす餅のきなこかな    住山 春人
枯木立男泣きして母葬る      高橋 アケミ
囀りの杉の高みにからみ合ふ    武富 山歩
岩海苔を焙る厨に香を満たせ    竹本 治美
芽吹かむと欅は天に枝広ぐ     田中 寿徳
突風にとばされさうな雀の子    多丸 朝子
オランダ船の帆が運びくる春の風  民永 君子
啓蟄や土に触れたく庭歩く     近松 光栄
グランドを二度振り返り卒業す   塚本 一夫
沖をゆく帆先のカーブ風光る    津田 卓
春泥や地震鎮まれと合掌す     土屋 佳子
身に沁みる地震の震へや凍もどる  坪井 研治
山並を映し棚田の田植かな     徳永 和美
鳶の鳴く声柔かく水温む      富岡 霧
追憶を託して揺るる半仙戯     中川 孝司
あの門のあの植込みぞ沈丁花    中島 雄一
豆飯や二人となりて広き家     中村 寿祥
春鹿の物憂き眼閉ぢにけり     中村 紘子
春怒涛熊野三山動かざる      南藤 和義
枝跳ねて天城峠の春の雪      萩野 清司
短夜の雑魚寝のあとのだるさかな  橋本 行雄
うたた寝の母の背に被せ春ショール 長谷川 千何子
矢絣に袴の笑顔風光る       花上 佐都
子を思ふげに七段の雛飾り     播广 義春
春時雨雲行き仰ぐ農夫かな     藤田 孝俊
白梅の香の流れゐる島の路地    藤原 近子
三月のその明るさの限りなし    保谷 政孝
木屋町の路地には路地の春の闇   堀 いちろう
伊吹嶺の光増したる二月かな    堀江 美州
風の子を従者となせりしやぼん玉  本庄 康代
路地苺葉をもたげれば鈴なりに   松田 茂
春の空声ふくらませ鴉鳴く     みずたに まさる
ふと会釈せし人は誰朧月      宮内 孝子
焼芋を包んだ紙を読んでゐる    宮本 龍子
ふらここの大きく空へ近づけり   森濱 直之
かまくらのらうそくで聞く民話かな 安田 芳雄
袈裟懸に溶岩肌あらは雪解晴    山田 礁
卒業子夕日を浴びる名残の輪    山田 鯉公
白梅や井にふりそそぐ日の欠片   吉沢 美佐枝
 幼な子の下萌に耳何を聴く    和歌山 要子











星雲集 今月の秀句

伊藤伊那男

   防風を掻き分けてまた砂の風    西原舞

 観察力のある句で読後の余韻も深い。防風という植物のありようが誰にも納得できる。写生という伝達力をしっかり身に付けたのだと思う。「掻き分けてまた」の運びは十分な臨場感を持つ。観察力の勝利ということであろう。

   生涯にひと日はながき春の地震   有賀稲香

今回、大震災に関する句が沢山出句されていたが、この作者の句に一番切実感があった。やはり体験の裏打ちがあるからなのであろう。余震、津波、原発事故と、次々に入る情報――「生涯に」という措辞に万感の思いが籠る。

   引鶴につうもをるらし棹の中    山田康教

 思わず、やったね!と頬が緩む句である。「鶴の恩返し」の物語が彷彿する。人間と鶴との交流、実態を知ってしまった、知られてしまった鶴。今、引鶴の棹の中に入って去ってゆく。そんな感慨を抱いて空を仰ぐ作者がよい。

   道端に空の欠片のいぬふぐり    山下美佐

 犬ふぐりと空の色を取合せた句は沢山見てきた。が、この句の「空の欠片」は独自の発想であると思う。空の一部が転がり落ちて犬ふぐりになっている、というのだから何とも楽しいではないか。童心ともいえる詩心である。

   春の鯉埴輪のやうな口開く     有澤志峯

あの、ぽっかりと開いた鯉の口を「埴輪のやうな」と見た直感、その感性の鋭さを褒めたい。季語として「冬の鯉」「寒鯉」はあるが、「春の鯉」は普通では使われない。が、埴輪との取合せは、駘蕩たる春でなければ、と納得。

   風つくり風をむかへて夏暖簾    唐沢冬朱

「風をむかへて」なら当り前。「風つくり」があると異色。物理的には暖簾が風を生み出すことは無いのだが、こう断定されると、きっとそうだろうと思えてくるところが俳句の力である。涼やかな印象を残した。
 

   めんどりの羽からひよこ春うらら  杉本アツ子

いい場面だ。読み手の心を温めてくれる。親鶏に庇護されているひよこが羽から顔を出したのである。「羽からひよこ」と言うだけで、余分なことは一切言わない。無駄の無い句なのである。「春うらら」の季語の斡旋も絶妙。 

   つまづきて風船空へ落したり    飯田康酔

機知の効いた句、トリックのある句ということになろう。読者によっては好みが別れると思うが、この挑戦は買いたい。「落す」というのは当然、下へ行くものなのだが、この句では、空という上へ落したという逆転の発想。 

   学舎の子供の数のクロッカス    鈴木淳子

クロッカスは水栽培ができるので、ガラスの鉢に球根を置いて窓際に並べる。白い根などが全部見えるのである。児童の数の鉢が教室で花を咲かせる。各々が自分の鉢の世話をするのだ。名詞だけで貫いた作句姿勢がよい。

   風の子を従者となせりしやぼん玉  本庄康代

先ほど、風船の句で逆転の発想ということを言ったが、この句も同様の面白さを持つ句である。本来はしやぼん玉を吹く子供が「主役」なのだが、吹いたしやぼん玉に引っ張られていくような錯覚を起こさせる技法。
 

   焼芋を包んだ紙を読んでゐる    宮本龍子

 焼芋は古新聞や広告のちらしなどで作った袋に入れてくれることが多い。作者は頬張りながら、一年前の新聞記事などを読んでいるのであろう。その時間のズレが面白く、「読んでゐる」に古い記事に感心しているおかしさが・・。

   豆飯や二人となりて広き家     中村寿祥

「豆飯」という小さなものと、「広き家」の取合せ。子供も育て終って、肉なども食べなくなる。そうした夫婦二人の暮しが、豆飯というもので象徴されているのである。 

その他印象深かった句を次に

 しばらくは堰に親しみ鴨引けり     上田裕
 槍投げの槍投げられて土筆の野     北澤一伯
 石鹸の泡立たぬ夜の余寒かな      伊藤政三
 春の暮浅草にゐてナポリタン      松崎逍遊
 かまくらのらうそくで聞く民話かな   安田芳雄








2011/6/20 撮影 TOKYO