2017年 | 1月号 | 2月号 | 3月号 | 4月号 | 5月号 | 6月号 |
7月号 | 8月号 | 9月号 | 10月号 | 11月号 | 12月号 | |
2018年 | 1月号 | 2月号 | 3月号 | 4月号 | 5月号 | 6月号 |
7 月号 | 8月号 | 9月号 | 10月号 | 11月号 | 12月号 | |
2019年 | 1月号 | 2月号 | 3月号 |
3月号 2019年
伊藤伊那男作品 銀漢今月の目次 銀漢の俳句 盤水俳句・今月の一句 彗星集作品抄 彗星集選評 銀漢賞銀河集・作品抄 綺羅星集・作品抄 銀河集・綺羅星今月の秀句 星雲集・作品抄 星雲集・今月の秀句 伊那男俳句 銀漢の絵はがき 掲示板 銀漢日録 今月の写真 俳人協会賞受賞 |
伊藤伊那男作品主宰の8句今月の目次銀漢俳句会/2019/3月号 銀漢の俳句伊藤伊那男
|
◎句会はオーケストラ 「今日はいい句会だったな」と思う日があるが、どのような句会であるかというと、①自分の句に沢山点が入ったとき ②他者の佳句を選べたとき の他に ③いい運びの句会であったときである。この③について述べてみたい。 主に披講からのことになるのだが、私は、句会はオーケストラだと思っている。披講者は即ち指揮者である。指揮者であるためには楽譜が読めなければ駄目なように、選ばれた句を正確に澱みなく読まなくてはならない。そのためには披講者は清記用紙が廻ってきたときから、もしこの句が選ばれたら何と読めばいいか、どこで切ったらいいのか、などということに留意しながら選句をしていかなくてはならない。一昔前に聞いたが、某結社では披講の勉強会をしていたという。それほど披講者の役割は重いのである。明確な発音、調べ、切れ、そして大切なことはその句会の状況に合わせたテンポである。世代などによって早くした方がいい句会もあれば、ゆっくり進めた方がいい句会がある。そのあたりが披講者(指揮者)の器量である。 一方各会員はどうかというと、これはオーケストラの各楽器である。だがこの意識をなかなか持てない人がいて混乱が生じることになる。要は自分の句にしか関心を持っていない人達である。では会員は披講に際してどういう行動をすればいいのか? ①自分の担当する清記番号をしっかりと覚えて、そこにはどんな句が並んでいるのか目を通しておく ②披講者が「○番」と自分の手持ちの番号を言ったらペンを構えて清記用紙を睨む ③名乗りを聞いたら大きな声で「いただき」と明確に応じ、作者の名前を記入する ④自分の句が披講されたら遠慮せず大きな声で「○○!」と名乗ることだ。小さな声で名乗って「えっ、誰?」などと聞き返されたら失格である。オーケストラの流れを止めてしまう失態である。「有難う、こんなに沢山の句がある中でよくぞ私の句を選んでくれて!」と感謝の気持ちを籠めて大きな声できちんと名乗ることが句会の礼儀である。 よく自分の句を忘れてしまって名乗れない人がいるが、これが一番困る事態である。その心配のある方は出句した句を紙に書いて机上に置いたらどうであろうか。それでも忘れてしまう人は、仲の良い友人に隣に座ってもらって合図してもらう……くらいしか対策は無い。 以上、それほど難しいことではなく、句会を盛り上げる(オーケストラを完成させる)という共同意識さえ持っていれば、次第に馴れてきて円滑に進むはずだ。句会が自分一人のものではなく「座の文芸」であることを自覚して臨んでいただきたい。 |
東京都日野市の高幡不動尊の属目。当時先生はフジテレビの早朝の番組「おめざめ天気予報」にレギュラー出演されていて、彼岸会にはこの境内で住持の川澄祐勝氏と共に生中継があった。鴉の声さえ澄み切って、彼岸会の清々しさが漲っている句である。その後、盤水先生は墓所をこの寺に定められ、今眠っておられる。川澄祐勝大僧正は昨年ご逝去された。「春耕」の新年大会は毎年この寺で開催され、先生からの縁は続いているのである。 (平成4年作『曉紅』所収) |
さて、どこの教会であろうか、五島列島あたりにあるのだろうか。小さな村落の教会の畳替という珍しい光景である。西洋から渡来した宗教と、日本の生活習慣の融合をうまく五七五に納めているのである。この素材を見つけたことは僥倖。百軒と打ち出したところが技倆。 |
皇は「すめらぎ」と読むのであろう。多分これは私が案内した聖武天皇の恭仁京の嘱目であろう。聖武帝は理由は不明だが、難波宮、信楽宮、この恭仁宮と中途半端に都を移し、結局平城京に落ち付いて東大寺を建立した。この遷都の忙しさを「煤逃げめける」と詠んだのは卓越した発想だ。もちろん我々の旅が「煤逃吟行会」であったからそこに糸口があったのだが、見事である。さて一つ問題として残るは「煤逃げめける」の「めける」の措辞。つまり、煤逃げみたいな、という比喩であり、季語にはならない、という意見が出るからだ。たとえば、「南瓜のような顔」といったときの南瓜は季語になるか?という問題である。どんな使い方であろうが「南瓜」が入っているのだから「可」とする意見ももちろん多い。優柔不断だと言われそうだが、私は「南瓜のような顔」は取らないが「煤逃げめける遷都」は取る。詩的レベルが段違いだからである。 |
これも発想がユニークである。冬の田を縫っていく鉄道であるからこその設定の良さである。身近の衣類のファスナーを見るとよい。確かに閉じたあとは枕木のようでもあり、引っ張り上げる部分は電車の箱のようにも見える。この比喩には驚嘆するばかりである。この柔軟な発想を持ち続けてほしい。 |
知的構成の句で、やや知が勝る句であるかもしれない。井伊家は最強の軍団を持っていたことで知られるが、甲州武田家の遺臣を集めた集団である。 あかぞなえ 甲冑を赤で統一したことから「井伊の赤備」と呼ばれた。その居城彦根城が今紅葉の最中である。これも「赤備」という構成である。 |
私の育った頃は掘炬燵で、炭を継いでいた。昭和三十年台中頃から電気炬燵に変わっていったのではなかったか。電気炬燵なら持ち運びが自由だし火事の心配も少ない。しかし今気付くとその電気炬燵さえ使っている家は減っているのではなかろうか。現に私の家にも無い。それを象徴的に「ばあちやんと共になくなる」と言ったのである。 |
緩慢に続く神楽に退屈し、そうなると隙間風が気になるのだが、クライマックスの天岩戸の場面になると俄然観客席にも熱気が出て、隙間風が気にならなくなった、というのである。舞台の展開をうまく捉えた句であった。 |
「張り付く」に対象の特徴を的確に捉えている。 |
二上山と当麻寺であろうか。綺麗な仕立てになった。 |
作者の目には蕪村の柔かなタッチの山河に変っていく。 |
大きさの違う草履。成長過程が読み取れる。 |
家では塵になってしまう葉を兎に持っていく子供。 |
鶴が羽を畳みつつ着地する場面。「奉書」が高貴。 |
いよいよ日常生活に戻る「七日」をうまく捉えた。 |
ももんじ屋の開店時間。隅田川にはやや潮の香も……。 |
小諸生まれの臼田亜浪。その人柄が投影している。 |
山村の正月用意の様子がリアルに表現されている。 |
鶺鴒にも好きな石があるのか。石叩の異名もあり、面白い。 |
顎まで深々と沈めた柚子湯。吃水線が効いている。 |
伊藤伊那男
恒例の横浜吟行会での高得点句。港に繫留してある氷川丸での嘱目である。煤逃で横浜に遊びに来て、最後の最後に氷川丸に乗船しあちこち見た上で船底の機関室に入る。位置からすれば水面下になるわけで、煤逃もここまで来たか……という、煤逃の概念をはるかに越えた発想の句であった。もう十年ほど年末の横浜を歩いているが、このような句を見ると、まだまだ続けられるな、と思う。 |
千枚田も冬ともなればすっぽりと雪の下となる。雪が深くなれば畦の形も不明瞭となり、まさに一枚の雪の下となる。「千」と「一」の数字を配したのが手柄である。 |
「おほらかな」の打出しが何ともうまい。多少の隙間風など当り前のこととして気にしない。それが「家風である」とまさにおおらかな詠みぶりである。いい家族が揃っている家なのだろうな、と想像が付く。隙間風の「風」、家風の「風」と全く意味が違うけれど、「風」が入っているところも面白い。同時出句の〈どこまでも行ける切符や冬銀河〉も目的地を決めない豊かな冬の旅、宇宙まで行けてしまうかもしれない……などという思いにも広がる。 |
日本神話の神々は恋もすれば裏切りもする人間と変わらない存在だ。そういう神だから人と同じように年を取るであろうという。それと共に、里神楽の演者も、これも必ず年を取っていく。そのように神と人の両方を詠んでいるのが面白いところだ。 |
南無は仏法僧の三宝への帰依を表す言葉。「南無南無」と繰り返し、そのあと、「ふうふう」と繰り返すところがうまい。大根焚きは京都鳴滝の了徳寺が知られているが、千本釈迦堂でも行われる。同時出句の〈着ぶくれて閻魔の沙汰を案じをり〉は千本釈迦堂近くの千本閻魔堂の嘱目であろう。この地域は昔葬送の地蓮台野の入口でもあったので閻魔様にもとりわけ迫力がある。「沙汰」の措辞がいい。 |
「光と闇」を持ってきた発想がいい。新海苔の艶やかな黒、光に当たったときの照り返しという二面、光と影をうまく捉えている。その二面を畳む、と納めて見事な構成。 |
これも多くの納得を得る句であろう。年を取れば当然だが、ご無沙汰ばかりで、とか出不精で、とか言訳やらお詫びやらが増えていく。「詫状めける賀状」とは言い得て妙である。 |
地方の町や村で今も見かけることがある庚申塚。辻などに石塔が並んでいる。冬日はその庚申塔の高さの順に差していくという。斜めに差す冬日の様子が如実である。 |
楽しい句だ。部屋の真ん中に炬燵のあるのだから、動きはおのずから炬燵を避けて直線と直角の動きとなる。そんな冬場の生活をユーモラスに描いている。「四角に動く」が実に端的に要を得た表現である。 |
五箇山門徒という言葉を初めて耳にした。富山県であるから浄土真宗の熱狂的信者が多い土地柄なのであろう。親鸞忌は報恩講、御正忌、御講ともいい十一月二十八日。本山へ各地からバスが到着するのだが、そのうちの一台は五箇山から、という。五箇山門徒とは不思議な響き。 |
ポインセチアはいかにも冬の都会に似合う花。ショーウインドーなど雑踏の中に咲く。人声、車の音、暖房の音、など様々な音を纏っている、そうした花の特徴が出ている句だ。 |
その他印象深かった句を次に
素人ながら蕪村の絵のタッチのやさしさが好きである。墨の濃淡にこれほどの多様性と深みがあることに驚嘆するばかりだ。この句、生活の中の実感と蕪村忌の取合せが軽妙である。句の濃淡が面白い。以前京都島原の角屋の蕪村忌俳句会に招かれたことがある。その会では「蕪村の(●)忌」は駄目で「蕪村忌」と詠まなくてはならないというルールであったことを紹介しておく。同時出句の〈睨む目に冬麗映す閻魔堂〉〈大根焚染み入る色を崩し食ぶ〉は、千本閻魔堂と千本釈迦堂の嘱目であろうか、各々きっちりと対象を詠み取った秀逸。 |
京都の神護寺でかわらけ投げをしたことがある。なかなか難しいのだが三投目位でようやく三尾の山襞に消えていった。さてこの句、もし「春日」「夏日」「秋日」であったらどうか?「溜めて」があるところが決め手で、やはり冬日が一番合うようだ。かわらけに残るほのかな温みなどが感じられるようだ。同時出句の〈重ね着に見えないやうに重ね着す〉は「重ね着」のリフレインを使って独得のユーモアを醸し出している。〈冬めくや一歩近づく富士の山〉は一歩の距離で富士山の大きさが違うという錯覚だが、澄み始めた冬の空気を捉えた感覚のいい句だ。 |
いかにも鵙日和である。高々と突き抜ける鵙の鋭声。あたりを統べるように高い木の上にいるが、その一樹から声がはみ出るようだという。この中七の把握が出色。 |
真摯な句である。晩学はいい、私も一口に言えば晩学中である。人は死ぬまで何かを学ぶ、熱中できる何かがあることが大切だと思う。この句は「膝毛布」が眼目。晩学というものを象徴する季語の斡旋である。〈降り立ちてなほ相寄らず寒鴉〉も寒鴉の孤高性を捉えて出色。 |
確かにそうだな‥‥と思う。全ての葉を落した冬木立に枝々が顕である。それまで見えなかった木々の癖がよく見える。この句でいう「百」は「ことごとく」の意味。そのリフレインが心地よいリズムとなって身に入る。同時出句の〈新宿の改札抜くる大熊手〉も気持のよい詠みぶり。 |
重ね着をしていれば少し大きく見えるのが普通なのだが、「されど縮みし」という。強かった母も年と共に衰えていく。人の世の節理とはいえ淋しいことだ。だが表現として最後まで深刻でないのが俳句の妙味である。「されど縮みし」の中七に少しおかし味が混入しているのがよい。 |
対象物をよく見た一物仕立の句。茫洋として地味な花の特徴をよく捉えている。「針の山」の見立ては納得できる比喩である。「咲くほどに」の打ち出しもいい。同時出句の〈恙なき今年と同じ日記買ふ〉も験担ぎが面白い。 |
美しい句だ。牧場の牛の眼に映る星々とは!そのようにして聖夜が過ぎていく。あたかもキリスト誕生のその場面と錯覚させるような仕上り。 |
鳥獣戯画の寺とは京都高山寺。鳥羽僧正覚猷の筆という。絵の中でも動物が跳ね回っているが、寺の境内にも寒雀が跳ねている。絵画と庭の実景を組み合わせて楽しい句となった。同時出句の〈仕舞屋の続きに灯る三の酉〉は下町の風情をよく詠みとめている。 |
単身赴任者の生活の一齣であろう。炬燵には決った位置があり、違う位置に座ることはほとんど無いものだ。三方は空きっぱなし。微妙な淋しさがこの句の詩因である。 |
伊那男俳句 自句自解(39) 縺れたる糸そのままに針供養
針供養は関東では2月8日、浅草寺の境内、淡島堂で、関西では12月8日に淡島神社で行われるものが知られている。私の句は浅草寺が頭にあっての句である。というのは実際の針供養の日に訪ねたことはないが、浅草寺にお参りし、浅草六区へ抜ける折によく通り、また何度か手を合わせてもいるからである。そのお堂と、テレビで何回か見ている行事の映像などを組み合わせて詠んだものである。針供養には裁縫を生業としている人や洋裁学校の生徒などが参加すると聞く。若い女性達が多いという想定から「赤い糸」の話を句の中に組み込み、目に見えない赤い糸で結ばれていると信じていても、縺れることもある……という物語仕立てにしてみたものである。勿論写生仕立てではあるが。実は〈山門に男を待たせ針供養〉という句も作ったが、これはいかにも品位に欠けるといわれそうなので、句集に入れるのは止めたのである。 みちのくの蒲団の厚き寝釈迦かな
山形県の内陸、最上川のほとりの大石田を訪ねる、と盤水先生に相談したら、「板垣家子夫さんを訪ねなさい」と仰った。私達は菓子折を持って訪問した。もちろん家子夫氏の代ではなかったが、温かな対応をして下さった。茂吉が疎開した家は聴禽書屋と呼ばれ資料館として残っている。また乗船寺という寺には茂吉の分骨墓所があり、〈最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも〉の歌碑がある。その寺に入った右側に寝釈迦を祀るお堂があった。いつの頃か知らないが、酒田から最上川を船で遡ってきたのだという。その敷布団が随分厚いな、と思った。みちのくの豪雪地帯だから、信仰する人々の気持ちが自然にそうさせたのであろうか……。印度のお釈迦様が雪国で厚い布団に寝ているのを面白く感じたのであった。大石田は芭蕉が訪ねた頃から最上川の内陸部を差配する拠点であり、紅花の積出し港として隆盛を極めたのであった |
12月 12月18日(火) 快晴。成城の銀杏並木はほぼ裸に。山茶花垣根が美しい。ひまわり館にて「萩句会」選句。あと16人、店にて忘年会。会員の林さんと検事のさくらさん。21時半閉める。 12月19日(水) 若井新一さんより「若狭」主宰・遠藤若狭男さん逝去と。昭和22年生まれ。その昔「塔の会」入会の同期。結婚される折、柏のマンションの売却と今のマンションの購入の世話をした縁あり。衝撃を受ける。店「雛句会」11人。「三水会」6人。「江戸城天守を再建する会」の方々4人など。あと大塚凱君、大野田さんと餃子屋。 12月20日(木) 店、天野小石さん骨折につき、太田うさぎさん登板。山田真砂年さん、寺澤一雄さん。22時、閉めてまた昨日に続き餃子屋四人。 12月21日(金) 午前中で2月号の選句全て終了。いやいや彗星集はまだ。発行所「蔦句会」選句へ。あと10人店へ。水内慶太さん「すし屋の弥助」の鯖寿司土産に来て下さる。慶太さん25日に京都にいるとのことにて、祇園の「米」にて落ち合うことに。 12月22日(土) 6時起。8時40分の品川発新幹線に乗車。近鉄を乗り継いで飛鳥。タクシーでキトラ古墳へ。徒歩の先陣を追う。雨上がりの曇天。歩いて高松塚古墳。これも初めての訪問。飛鳥駅に戻り、バスにて石舞台古墳。宿泊は「飛鳥の宿 祝戸荘」。18時、夕食。飛鳥鍋が実にうまい。白菜、菊菜が何とも。あとおじや。20時から5句出し句会。雑木越しに見る月が美しい。 12月23日(日) 5時、暗闇の中、懐中電灯を灯して飛鳥川沿いの稲淵へ。雄綱、南淵請安碑などを暗い中で見る。戻って朝食。8時半、徒歩にて飛鳥散策へ。先ず橘寺。酒船石、飛鳥寺。甘樫の丘にて吉村征子さん差し入れの柿の葉寿司。酒井多加子さんの干芋で昼食。三山はもとより、二上山、葛城、金剛が美しい眺望。14時過ぎ、近鉄奈良。興福寺の再建なった中金堂を拝観。結局20キロ位歩いたか。「ホテルフジタ奈良」に入り休憩。作句。17時、「蔵」へ.朝妻力さん等も加わり30人位。茨木和生先生から鮒ずし、焼酎、力さんからうぐいのすしの差し入れあり。5句出し句会。あと3句出し句会。料理いずれも佳し。特に最後の鯖寿司は極上! 12月24日(月) 5時起、恒例の春日大社参詣は休み、ゆっくり風呂。朝食はホテルのレストラン。茶粥など。8時、バスにて恭仁京跡、海住山寺。恭仁京跡ではボランティアの方に誘われ近くの会館でビデオを見せていただく。蟹満寺、酬恩庵一休寺は、22、3歳の頃訪問以来。15時過ぎ、京都駅にて解散。大野田井蛙さんと烏丸四条のホテルへ。17時、「味どころしん」和田ちゃん、悦子(京都造形芸術大教授、画家)と落ち合う。ぐじ、のどくろ、刺身、万願寺、雲子……あと鴨川沿いのバー。更に三条の「京都サンボア」、ラーメンと……。 12月25日(火) 8時半、「タカギコーヒー烏丸店」にてリッチモーニングセット。9時半、銀閣寺横から大文字火床へ登る。京の町を眺望する。そこで知り合った毎週のように登っているという地元の方の案内で山頂へ。更に俊寛僧都の鹿ヶ谷の密談の山荘跡へ案内してもらう。山の中腹にて本当にこんな所で? と思うが碑も建っている。山全体、台風の被害で倒木だらけ。南禅寺横に降りて「奥丹 南禅寺店」で湯豆腐の昼食。あと琵琶湖疏水とインクライン跡を歩く。日向大神宮で外宮、内宮を参拝し、遥拝所へ。ここに伊勢神宮と京都御所を一直線に結ぶ鳥居あり。17時、千本中立売の居酒屋「神馬」へ。和田ちゃんと落ち合う。よこわ、ふぐ皮、雲子、車海老、諸子……。ともかくどれも見事! あと西陣京極の「鳥どり」に行くと、何と二週間前に女将さん逝去と。焼香させてもらう。20時半、祇園「米」。水内慶太、麻里伊、十朗さんと落ち合う。先週、京都に行くと聞き、会う約束をしたもの。舞子あがりの米さん90歳。 12月26日(水) 二日酔い。8時半、ホテルのレストランで朝食。9時半、慶太さん一派と真如堂の去来の墓。会津藩士の墓、金戒光明寺を散策。正午、聖護院の「河道屋養老」にて養老鍋。15時半の新幹線に乗り、4泊5日の旅を終える。 12月27日(木) 家族はスキー旅行へ。店、伊那北高校後輩、講談社学芸クリエイト社長の林辺さん。岩波書店部長の馬場さん来店。全体閑散。 12月28日(金) 本年営業最終日。武田編集長の声掛けで「銀漢」の仲間20人ほどが集合。食べ物なども持ち寄って下さる。最終日賑やかに終わる。有志は二階で〆の句会。 12月29日(土)、30日(日) 2月号の原稿執筆。庭でからすみ干し始める。十一腹。夜中、家族戻った様子。 12月31日(月) 彗星集書いて、2月号の原稿終了。3月号のエッセイ。本に埋もれた部屋の清掃。18時過ぎ、家族揃いお年取りの宴。愛媛から取り寄せた河豚刺、河豚鍋、鰭酒。宮澤の知人からおせちの重が二カ所から到来とて大晦日ながら一つ開く。紅白歌合戦など。 1月 1月1日(火) 買い物に出て成城駅南口あたりから初富士を拝す。昼に新年の挨拶、屠蘇、ヴーヴクリコ、おせち料理、雑煮、からすみなど。1日、部屋の清掃。おびただしい書物。夜すきやき。年賀状沢山戴くが多忙と気力の点で年賀状の作成怠ったため返信できず。さて、どうするか……。 1月2日(水) 飯田子貢さん句集第二稿確認し返送。昼から酒盛り。喜多見の氷川神社に初詣。17時、杏さん一家来宅。新年会。大人5人、孫7人揃う。店の客の高部さんから届いた玄界灘の一本釣りの鰤捌き、刺身、鰤しゃぶ、てり焼、カマ焼、鰤大根、最後雑炊と全部食べ尽くす。 1月3日(木) 早朝から家族はスキー旅行に旅立。誘われたが私はもうスキーは卒業。7時頃家を出て茨城県の古河へ。鎌倉から移った古河公方の地にて、一度訪ねてみたかったもの。古河公方館跡、永井路子旧宅などを散策。長谷寺は正月の祈祷客で溢れんばかり。甘酒をいただく。かれこれ3時間以上散策。駅の喫茶店で一休み、昼食。名物の鮒の甘露煮を少々買う。帰路の車中で大野田さんにメールを入れると沿線に住んでいるので大宮で会おうと。大宮駅前の酒場「いづみや」で新年の乾杯。もう一軒。 1月4日(金) 「俳句αあるふぁ」、一句一菜の連載、今年の料理12品目を編集部に送る。「新年俳句大会」用の色紙、短冊など沢山書く。書初め。終日家。テレビなど見て過ごす。 1月5日(土) 昼、八王 子市別所の兄の家。開業医を引退し、日本蜜蜂を飼ったり、野菜を作ったり、烏骨鶏を飼ったりしている。養蜂の教えを乞いたいと頼まれていた野村證券OBの川畑保さんと落ち合う。手製の料理の数々、鴨鍋などで宴会となる。15時過ぎ、辞し、17時、太田うさぎさんの家へ。「銀漢亭」つながりの面々17、8名で新年会。既に酔っぱらっている人も。各々料理持ち寄りでテーブルは溢れんばかり。森羽久衣さんの能登のかぶら寿しが私には絶品! 最後の芹うどんを作る。酩酊の1日。 |
写真は4~5日間隔で掲載しています。
△ミモザカシア
ミモザはアカシア属の花木です。アカシア属は、世界中に600種類ほど自生しています。多くは、黄色や淡黄色の細長いおしべが放射状に広がった、ポンポンのような球形の花が咲きます。