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伊藤伊那男作品主宰の8句九 九品の阿弥陀如来 今月の目次銀漢俳句会/2019/10月号 銀漢の俳句伊藤伊那男
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施火◎五山の送火 八月十六日、大文字の送り火を見た。京都御苑の蛤御門を入った建礼門の前あたりから、ほぼ正面となる東山の大文字の一つだけを拝することにした。昼間、銀閣寺近くの、日本画の巨匠橋本関雪の白沙村荘を訪ね、二階のテラスから前面にある如意ヶ岳山腹の火床の最終作業を望見した。大勢の人が動き廻っているのが見える。大の字の一番長い第二画が一六〇メートルあるというから、大変な作業である。 一昨年の年末、銀閣寺横の登山道からこの火床に登った。東山はいざ登ってみると思いの外急峻で奥も深い。小一時間ほどで火床に着いた。大の字の三偏が交わるあたりから上下を見渡すとその壮大さに驚く。この火床に毎年松葉や割り木を敷きつめるのであるから大事業だ。たった十五分位で燃え尽きてしまう鎮魂の火のために世話役は恐らく半年位は関わりを持つのではなかろうか。それを延々と五百年ほど続けているのである。しかもこの大文字だけではなく、妙法・船・左大文字・鳥居と五山で行うのであるから、やはり京都は底知れない町である。 白沙村荘のあと、近くの蕎麦店で遅い昼食を摂りながら亭主と話をすると「私は分家なので大文字の準備には加われないのです」という。そんな厳格なルールが今も生きているのであるから唸るしかない。 私は二十二歳の時就職した証券会社の京都支店に配属され、三年近くこの町で暮らした。その間二回ほど大文字を見ているのだが、ちらりと見たくらいで、ほとんど関心を持つことがなかった。今回は実に四十五、六年振りの大文字、七十歳の大文字である。その間、様々な体験があり、出会いと別れがあった。京都育ちの妻は五十五歳で亡くなり、この東山の続きの墓所に遺骨の一部を納めてある。自分自身も老い先が読める年齢となった今、大文字の火は格別である。午後八時の点火の三十分位前から待ち、大文字の火が完全に消え果て、東山が闇に沈むまで、一時間位を御所の広場に立ち尽くして見送った。 大文字の発祥には弘法大師や足利義政の名が挙げられるが、確かな資料はない。記録の初見は万治三年(一六六〇)刊の『洛陽名所集』で「そのかみより七月十六日の夜、四方の山に松明にて妙法、大の三字、或いは船のなりなどつくる事也」とある。少なくとも室町時代に始まっていたと思われる。 季語としては「大文字」「大文字の火」「妙法の火」「船形の火」「左大文字」「鳥居形の火」「」「精霊送火」「五山送火」などと詠まれる。 |
自註に「囮をかけている御師に聞くと、つぐみを狙っているということだった。あたり一面は霧が濃かった。御師は酒を飲んでいた。武州御嶽にて」とある。御師は参拝者用の宿泊用の宿を経営したり、講中を勧誘したり、案内を勤める半神職。この御師はいかにも生臭そうである。先生はこうした生態を描写するのが上手だ。鳥に詳しい先生は興味を持って話しかけたのであろう。誰にでもすっと近寄ってすぐ打ち解けてしまう。 (昭和五十七年作『山晴』所収) |
「夜の秋」は夏の季語だというと驚く人がいるかもしれない。もともと「秋の夜」「夜の秋」は同じく秋の季語としていたが、原石鼎の〈粥すゝる岨の胃の腑や夜の秋〉を高浜虚子が夏としたものである。もちろん全員が納得しているわけではなく、青木月斗は反対を表明した。だが今ではだいたいの歳時記が秋に立項している。角川俳句大歳時記の解説には「晩夏、昼はまだ暑さが盛んなのに、夜になると秋の気配が漂うこと。(中略)夏のうちに秋を感じる鋭敏な季節感から生まれた季語である」とある。前置きが長くなったが、掲出句はまさにこの季節を見事に表現しているのである。まず夕刊を提示したところがいい。帰宅して暗くなった頃の場面設定へ無理なく導入している。読み終って裏へ到る頃、ふと常とは違う秋の気配を感じたのである。僅かな時間の経過を入れながら秋を感じる瞬間へ持ち込んだのである。 |
竹材を描いた扇子絵。風に揺れているのであろう。煽げばその絵の風が現実に絵の中から湧き起こってくるような気がするという魔法の扇。俳句にもその魔法がかかっているかのように爽快な仕立てである。多いということを「百幹」と纏めたところも的確である。 |
既に履くことのない登山靴であるが、夏山の季節、それを眺めるだけで季感がある。私も四十代、登山に熱中し、一七十回程の登山記録がある。私の持っていたのはイタリア製の皮靴で、イタリアでは皮を取るためだけに育てる牛がいる、ということを知った。私は今夏十七年振りの登山で白山に登ったが、この句の実感は共有できる。 |
私は時事俳句は好まないが、この句のように日常生活の中の呟きの形ですんなりと出てくるのであれば納得がいくのである。自分で何ができるかは解らないが、世の混乱には困ったものだなと打水をする。目の前の地熱は少し収まっても……それだけ。俳句はそれ以上には踏み込まない、というのが私の作句姿勢。 |
秋蛍は一抹の淋しさを持っているもので、俳句もそのように詠まれることが多い。この句は直接にはそのようには詠んでいない。だがよく読むと、生命を維持する水よりも、昼の温みを残す石に寄る、というところに秋蛍の季節のずれの「あわれ」さが出ているようだ。 |
海水浴の興奮が眠るまで続いているのだ。子供の頃はそんな風であったな、と思う。私が最初に海を見たのは静岡県豊川の海。伊那谷から七時間ほど飯田線に乗って潮干狩に行った時。海の広さに田舎者は興奮したものである。この句、波に揺られた感覚がいつまでも続いている童心の句。 |
いかにも山峡の川床の様子が如実。空気が澄んでいる。 |
古地図には紙魚の残した道も……。道を重ねた面白さ。 |
絵の具の黄色は使い切った、とゴッホの特徴を際立たせた。 |
言われてみればなるほど、ちゃんと手順があるのだ。 |
途中で舐めたら失礼かと……困った場面である。 |
〈二度三度呼ばれ端居の腰上げる〉と自分を詠む手も。 |
「影絵となりて」「さやうなら」と各々の措辞がいい。 |
なかなかの比喩である。壮大な躍動感を出した。 |
先祖の霊が迷わないよう里程標も磨くと。 |
右三句はよく出来ている句だが、私にはやや既視感、類形感があった。 |
伊藤伊那男
私も小さな頃、近所の空き地に積まれた大きな土管の中を潜って遊んだものだ。今から思えば危険な資材置き場であったが、子供の数も多く、大人の目も届かなかった時代である。土管の狭さと、向こう側の明るさが異次元の世界に入るような楽しみがあったものだ。この句は過去へ戻る土管である。行ってみたい気もするが……葎が邪魔をするようだ。 |
端居とはそういうものだな、と思う。ぼんやりと縁側に座して取りとめもなく回想すると、故人の顔が浮かぶ。あの場面、この場面と……。まだ生きている人々のように近くにいるのだ。同時出句の〈父帰る蠅取りリボン避けながら〉も郷愁を誘う句であった。今の若い人はもはや見たことも無いと思うが、粘着力のあるテープを天井から吊るしていたものだ。触れないように避けて部屋の中を行き来する。 |
うまい句だな、と思う。日常生活の中の発見である。皆が見過ごしてしまっている場面を見逃していない観察眼である。風に揺れる釣忍に合わせて水を注ぐ。俳句はこういう風に詠みたいものだと思う。同時出句の〈草罠も刈り取られあり盆の道〉〈夏芝居女が泣けば影も泣く〉も各々印象深い句であった。 |
土用干の中に自画像があったという。何十年も前の自分の姿にしばし目を止めたことであろう。若い時の姿であり自作であればなおさら様々な思い出が沸き上がったことであろう。 |
夜店は子供にとっては別世界であった。アセチレンガスの匂いや、鉄板の上で焼く烏賊や焼きそばの匂い。金魚や風船、お面などの氾濫する原色――まさに迷宮であった。私の娘は、硬貨を握り締め、私と間違えて知らないおじさんの手を摑んで気付かずにいたことがあった。「迷宮」がいい。 |
紙魚の走りも、軍記物であればなおさら、という句。紙魚には本の内容は解らないのだが、それを速い、と見たのが作者の機知である。これも俳句の典型的な技法。 |
蓮飯は、赤飯などを蓮の葉に包み、両親や平素世話になっている目上の人などに配る盆の行事。「あととりのなき手でよそふ」に先祖への詫びの気持などが籠められているのであろう。しかし人の世はそうしたことを繰り返してきたのである。何事も自然に任せるしか無いのが人類の節理。 |
気持ちの良い句である。避暑地にいる知人からの一枚の葉書が都会に残る作者をも爽快な気分にしてくれるのである。句からは知人か親族との親しい関係やお互いをおもんぱかる気持が偲ばれる。 |
林檎産地の真っ只中で私は育った。信州では多数の家族が満蒙開拓団として楽土を信じて大陸に渡り、敗戦によって丸裸になったその方達が日本に戻り、また開拓地に送られた歴史がある。多くの林檎農家はそのような苦難を乗り越えてきた方々である。「林檎もぐ足下」の措辞が端的にそのことを把握している。同時出句の〈葛あらし天台座主の相聞歌〉は平安京を舞台にした艶冶な句。「葛あらし」に波乱の予感があるところが味わいである。 |
京都鴨川べりの「川床」の嘱目。すでに宴酣の状態である。遅れて着いた人に灯が濃い、というところにさんざめく様子が的確に描き取られているようだ。無理の無い客観的な描写が余情を深めている。 |
心の安らぐ句だ。私は読み手をやさしい気持にさせてくれる俳句が一番いい俳句だと思っている。そういう観点で見るとこの句は童心に帰り、自然の恵みに包まれている至福の句である。心を豊かにしてくれる句である。 |
やはり長い髪を持った女性が主人公であろう。長い髪には女の情念が絡み付いているという。だが誰にだって情念はある。「髪洗ふ」の句は沢山見てきたが、「憑き物を落とす」ために洗う、という発想は初見である |
夏の季語「羅(うすもの)」の副季語として「絽」「紗」「上布」「軽羅」「薄衣」などがある。絽は透目を作った絹織物で、風通しがいい。薄衣であるだけに身体の線が明瞭で、後ろ姿に背筋がすっきりと見えたのである。句からは、その絽を着こなす女性の人物像も想像されてくるようである。同時出句に〈炎昼に真つ直ぐ刺さるピンヒール〉があり、こちらは洋装の女性像。同じく「まっ直ぐ」を使って和洋を描き分けている。〈ハンモック風に溶け込む眠りかな〉の「風に溶け込む」が、〈やり過す見知らぬ人と夕立を〉の「見知らぬ人と」が、各々中七で句を際立てていた。 |
向日葵は北アメリカの原産でキク科に属する。高さは二メートルを超えるものもある。その天辺に重くて大輪の花を咲かせるのであるから見た目には実に不安定な形である。句はそれを「無防備な」と捉えた。横向きの花であるから重力も片寄るはずであり、「無防備な」は確かな把握である。俳句にはそうした独自の発見が大切。同時出句の〈どこまでも優しく伸ぶる水着かな〉も伸縮自在な最近の高品質の繊維を俳句に持ち込んで新鮮。〈夕暮の帰途水眼鏡つけしまま〉も懐かしい風景だ。 |
端居をする縁側にも父の座があったようだ。風通しの良い場所とか眺望の良い場所とかであろう。多分今はもう居ない父のその端居の位置に座り、父の見ていた風景を見る。「父の山河」に父上の人生が重なっているのである。同時出句に母の句がある。〈母の家母には広し蟬時雨〉――家の歴史である。 |
長い歴史の中から生まれた村落の掟には、新参者は戸惑うことが多いことであろう。特に盆の行事などでは様々な取り決めがありそうだ。同時出句の〈送り火や後ろ姿を見たやうな〉はまさに盆の最終行事。御先祖の気配を感じたのである。 |
万華鏡は筒を廻しながら一方の小孔から覗くと美しい模様が様々に変化しながら見えるもの。夏の夜の観覧車を巨大な万華鏡に見立てた句である。回転しつつ客の乗っている箱も動くのであるから変化があり、まさに巨大な万華鏡である。同時出句の〈踊る手のそのまま戻る家路かな〉も佳品。 |
いかにも夏祭である。不意の来客か、通り掛かった祭衆に大急ぎで酒を振舞う。あるだけの茶碗を出したのである。茶碗という具体的な物を出して、活気を伝えた。 |
蟬時雨も聞き馴れると、それが自然の状態になって当り前のように思われてくる。そういう心理をうまく詠み取っている。信州に暮らしていた頃、クーラーも無い時代であったし窓を全開にして蟬の声を聞いていたことを懐しく思い出す。同時出句の〈真白なる灯台暗し晩夏光〉は色彩の濃淡のコントラストを捉えて出色。 |
私が大学に入った頃の経済学部は「マル経?」「近経?」というような分け方であった。マルクス経済が生きていたのである。今はどうであろうか?恐らくマルクス経済を選ぶ学生は僅少であろう。開くことも無い専門書は紙魚の天国となっているのだ。 |
若い頃読んだ楠本憲吉の俳句入門書に特に名のある俳人の句ではなく〈赤電話ごと私燃えてます〉という句があった。季語もないし、口語調で、私の学んでいた俳句結社では一切取り合わない句だが、噓の無い情のある一行詩として胸裡に刻んだ。掲出句はそんなことをふと思い出させてくれた。もちろん掲出句は季語もあるし、恋愛を詠んだものではない。炎天の真赤なポストを詠み切って出色。同時出句の〈どこ切るも面の濡れし水羊羹〉〈駄菓子屋の氷菓の棒に染みる紅〉もしっかりと対象物を見ている。 |
木魚と西瓜の異質なものの並列が面白い。盆用意の一場面なのであろう。田舎では自家の畑で収穫したものを供えたものだ。同時出句の〈一雨の濡れ縁乾き夕端居〉も佳。 |
伊那男俳句 自句自解(46) 知命なほさびしくなれば鞦韆に
前回までの自句自解は、第一句集『銀漢』収録の句で、33歳から48歳までの俳句人生を振り返った。このあとは第二句集『知命なほ』に移る。「知命」の由来は論語の「五十而知天命」である。40にして惑わず、というけれど、惑ったまま、天命を知るといわれる年齢に入った。句集に『知命なほ』と「なほ」を付けたのは、知命の年になったもののまだまだ天命を理解できず、落ち着かない日々を送っている……という気持ちを籠めたものである。有馬朗人先生に『知命』があるが、私にはきっぱりと言い切れない弱さがあった、ということになろうか。この句は黒澤明監督の映画「生きる」で中年の志村喬が夜の公園でブランコに乗っている最後の場面が念頭にあった。ストーリーとは関係無いが、人は何歳になろうとも抱えている淋しさは消えるものではない。それをかみしめて、共に生きていくのが人生ということになろうか。そんな50歳の感慨である。 嚏してふつとあの世を見し思ひ
仏教用語に「彼岸」「此岸」がある。彼岸は「あの世」、此岸は「現世」「娑婆」である。彼岸の概念は恐らく仏教伝来以前から日本人が抱えていたものであろう。人はあの世とは何かを考え続けてあの世に近づいていくのである。だがあの世から戻った人は一人もいないので、あの世のことは不明である。宗教の発生した根源はきっとそこにあるのだと思う。さて句について言うと嚏をするときにはおのずから目を瞑るものだ。普通は目を閉じても何らかの残像があるものだが、嚏の最中にはその残像も消え、暗闇だけが残る。それを「あの世を見し思ひ」と言ってみたのだが、真暗でその正体は不明である。この句を作ってから20年くらいが過ぎようとしている。その間に父、妻、母と見送ったけれど、結局「あの世」がどのようなものか解らずにいる。だが何となくあの世に近づいていることは実感している。それまでの間は日々一所懸命に生きなくてはならないと思っている。 |
去る3月5日、平成30年度の俳人協会四賞の授与式が京王プラザホテルで行われました。 ご存じの通り、伊藤伊那男主宰が句集『然々と』で第58回俳人協会賞を、同人の堀切克洋さんが『尺蠖の道』で第42回俳人協会新人賞を受賞四、銀漢俳句会から4賞の内二賞を頂くという快挙となりました。2019/4/30/更新 |
二次会・店内に入りきれない人数でしたが,日曜日とあって店の前の通りも通行が少なく,穏やかな天候の下、外に溢れる受賞者の二人や他結社の方々と交流するなど、思い思いにお酒を楽しみながr懇談を深め,何時までも祝賀会の熱気は冷めることがありませんでした。 |
伊藤伊那男 俳人協会賞 堀切 克洋 俳人協会新人賞 2019/3/17 学士会館 銀漢亭(二次会) |
△ 月刊「俳句四季」に受賞の記事が掲載されました。 △月刊「俳句四季」に受賞の記事掲載は5月号(4/20発売)か6月号(5/20発売)のどちらかを予定しています。 |
8月 8月20日(火) カウンターが賑わうのみ。22時、閉めて餃子屋で小酌。昨日から家族沖縄へ夏休み。 8月21日(水) 「三水会」5人。閑散。 8月22日(木) 「銀漢句会」あと16人。 8月23日(金) 「金星句会」あと3人。 8月24日(土) 13時半、九品仏駅集合。「纏句会」10人。九品仏、楸邨の墓参りなど。歩いて東京工業大学。谷岡健彦さんの世話で教室を借りて句会。あと商店街の中の中華屋料理にて親睦会。 8月25日(日) 終日家、選句。酒抜く。昼寝。テレビ。 8月26日(月) 店、閑散。仕込みに終始。家族沖縄から戻る。 8月27日(火) ひまわり館に「萩句会」選句。あと暑気払いに17名が来て下さる。「ひまわり句会」あと7人。今井肖子、西村麒麟さん他、若手句会のあと7、8人。 8月28日(水) 「雛句会14人。三井康有さん京都から。明日の仕込み。22時閉める。橋野幸彦さんお嬢さんと。 8月29日(木) 水内慶太さん『水の器』出版を祝う会。「月の匣」の方々。銀漢亭仲間50数名集まる。清人さん、気仙沼の牡蠣、海鞘など持ち込む。慶太さん、「すし屋の弥助」から棒寿司10本他。その他、差し入れ沢山。 8月30日(金) 「閏句会」7人。あとは閑散。 8月31日(土) 9時、新宿発あずさ号。茅野駅下車、信州伊那井月俳句大会に併せて諏訪吟行。マイクロバスにて出発。24人。茅野の会員、蜂谷さん参加。神長守矢史料館、前宮、上社を巡り、下諏訪へ。万治の石仏。春宮、御柱の木落とし坂。秋宮を巡り、伊那谷へ。「角八」にて親睦会。伊那の坂下昭さん来て下さる。いつものラーメン店に寄り、「ホテルセンピア」投宿。 9月 9月1日(日) 午前中、三つほどの吟行コースを設定したが、私は遅い出発の伊那部宿巡り。9時半発。伊那街道沿いの宿場。天狗党の通過に昼食を提供した歴史あり。突き当たりの春日城跡は初めて訪ねたが実に見事。織田軍に滅亡したが、今も城址を保っているのに感嘆。13時、「いなっせ」の信州井月俳句大会へ。竹入弘元先生(高校の恩師であり井月研究第一人者)がわざわざ私を訪ねて来て下さる。今年に入ってすっかり弱ってしまい、文字を読めなくなったと。「銀漢」誌を楽しみにしていたが、読めないので、贈呈はここまでと。基金戴く。その為だけに奥様の運転で来て下さったのである。事前投句の選評。親睦会。あと「門」にて少々飲み、飯田線、あずさを乗り継いで21時半帰宅。孫の怜輔、大阪城ホールの「おかあさんといっしょスペシャルステージ」、二公演終えて帰宅。 9月2日(月) 家族、今日から北海道旅行と。歯科、内科と巡る。8月の店の月次表作成。 9月3日(火) 大阪の俳人協会での講演資料作成。店、閑散。 9月4日(水) 「きさらぎ句会」あと5人。「宙句会」あと九人。 9月5日(木) 環順子さんと「パティオ」の仲間4人。「十六夜句会」あと十二人。 9月6日(金) 閑散。大阪の凌雲、茅野の蜂谷さん来店。家族北海道から帰宅。 9月7日(土) 終日家。休養日。11月の諏訪での講演会の構想練りながら、寝たり起きたり……。18時半くらいから打上げ花火の音がしきりに聞こえ、いたたまれず、音の方へ。駅の南側、不動橋に人だかりあり、ここから調布の花火大会が眺望できる。久々の花火。見事。多彩。30分程見とれる。戻って鶏のステーキ。焼茄子、若布と胡瓜のサラダ、鯉のうま煮等で家族揃って夕食。担当私。 9月8日(日) 成城仲間の山口敬子さん逝去。弔問す。47歳は悲しい。村上喜代子『軌道』評。角川「俳句」11月号へ4枚ほど。夜、家族揃って鶏鍋、若布と大根のサラダ、蛸刺など。担当私。台風襲来。 9月9日(月) 昨夜の台風で家のオリーブの木が倒れ、歩道を塞いでいる。店、ずっと関西で暮らしていたという石動敬子さん。伊那北高校後輩代田さん(月野ぽぽなの同期)。寺沢和雄、阪西敦子さん、閑散にて皆で雑談。 9月10日(火) 大阪の俳人協会での講演レジメ、播广事務局長へ送る。店「火の会」9人。全体閑散。 9月11日(水) 発行所「梶の葉句会」選句。鶴巻貴代美さん5人。硯児さんと話。毎日新聞の森さん3人。清人、羽久衣、近恵さん。22時閉める。 9月12日(木) 店、井上井月顕彰会の面々集合。来春の「井月忌の集い」の打ち合わせ。店、「白熱句会」。檜山哲彦、佐怒賀正美、木暮陶句郎、小山徳夫、藤田直子さん。厨房にいて、ほぼ参加できず。同時に「極句会」あり、15名ほど。 9月13日(金) 「写真とコトノハ展」の最終日。19時より幹事の倉田さん他12人の打上げ会。21時より入れ替わりに「大倉句会」あとの25人ほど。皆川文弘さん。 9月14日(土) 10時、運営委員会。13時、麹町会館にて「銀漢本部句会」。59人。あと中華料理店にて親睦会。帰宅して娘夫婦と四方山話。 9月15日(日) 14時過ぎ、京都着。阪急電車。洛西口下車。物集女街道に出て物集女城跡、物集女車塚古墳を見て、野村證券明生寮跡へ。48年前に入居。2年程いた思い出の地。今は大きなマンションに。向かいの竹内理髪店は今もやっていて、散髪して貰う。御主人は10年前逝去と。夫人は75歳になると。何とも懐かしい。町に戻り、寺町京極の「スタンド」。生ずしと小芋で小酌。16時、「しん」。ぐぢ、赤身、万願寺。「六曜社」でコーヒー。20時過ぎ、祇園の麻利子さんの店。伊那北高校の同期が寄る店。「相鉄フレッサイン」泊。 9月16日(月) ホテルでゆっくり。10時、「高木珈琲」でモーニングセット。最近はここが気に入っている。電車で亀岡へ。大本教の「天恩郷」がある亀岡城跡を見学。みろく会館ギャラリーで大本教の歴史などのビデオを見る。亀岡城下を散策。二条駅に下車し、神泉苑を覗くなどしながら町中へ。「イノダコーヒ三条支店」で休憩。うとうと。遊び疲れか。「たつみ」「スタンド」とB級グルメに寄り、今日はそこまで。早々にホテルに帰る。 9月17日(火) 11時、大阪北浜に着く。近くで朝昼食。大阪は右も左も解らない。大阪ホールにて、俳人協会関西支部の講演会。一部の前田攝子さんの近江の季語について聞く。二部が私。「井上井月に見る酒と食の季語」について1時間10分講演。あと「懐い古や」にて親睦会。講演には「春星句会」の皆さん聞きに来て下さり、親睦会にも。あと、茨木和生先生、朝妻力さん、田中春生さんを始め、20名ほどで茨木の朝妻力さん行きつけの「庄助」さんへ。何と、河豚料理一式用意あり。22時過ぎまで歓談。ホテルクレストいばらき投宿。 9月18日(水) 9時半、ホテル出て、新大阪。構内で茶漬の朝食。14時、東京に戻り、そのまま店に入る。 「三水会」7人。後輩の代田さん、たまたま来店して、加わる。駒ヶ根の先輩、今井さん久々来店されて加わる。そこへ、駒ヶ根商工会議所会頭山浦会長(ヤマウラ社長)他、会議所の面々6名が上京したとて寄って下さる。わざわざ店を捜して来て下さったのである。22時半、閉めて、今井さんに誘われて、「クラインブルー」へ。今井さん、83歳というのにお元気。 9月19日(木) 広島の樫村さんを囲む会とて宗一郎、黒岩さん他七人ほど。宗一郎さん還暦。「銀漢句会」あと10人。入沢さん4人など 9月20日(金) 発行所、「蔦句会」。あと店へ九人。そのあとは閑散。ラグビーワールドカップ、日露戦の為か。21時、閉店す。帰宅すると成城仲間のくみちゃん来ていて一緒に歓談。 9月21日(土) 13時半、品川駅構内「十六夜句会」「大倉句会」の品川合同吟行会にゲスト参加。構内の郵便ポスト、ゴジラ記念印などを見て、旧東海道品川宿へ。いづみさんの案内見事。品川寺まであちこち見て歩く。17時より、「ごっつ」という居酒屋にて、5句出し句会と懇親会。更に大井町まで歩き、酒場街へ。二次会。 |
△クリスマスリース
クリスマスまで一ヶ月。贈り物用に制作しています。1年かけて八王子で収穫した自然のおくりものを素材を中心に・・。