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2月号 2015年
伊藤伊那男作品 銀漢今月の目次 銀漢の俳句 盤水俳句・今月の一句 彗星集作品抄 彗星集選評 銀河集・作品抄 綺羅星集・作品抄 銀河集・綺羅星今月の秀句 銀漢賞・銀漢新人賞 星雲集・作品抄 星雲集・今月の秀句 伊那男・俳句を読む 銀漢の絵はがき 掲示板 鳥の歳時記 銀漢日録 今月の写真 |
伊藤伊那男作品寒林 伊藤伊那男
職歴は五指ほど勤労感謝の日 湯豆腐や嵯峨の篁鳴りづめに 驚きは跳ぬる高さに兎跳ぬ 冬めくや酔へばこのごろ泣き癖に 青畝忌の葛城に濃き冬夕焼 落日といふはなやぎを雪ばんば 三代のあとを小犬に毛布敷く 寒林に入り散策は思索へと 今月の目次銀漢俳句会/2月号 銀漢の俳句伊藤伊那男
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◎連歌から俳諧へ 一昨年秋に、20年に一度の伊勢神宮の遷宮があった。私も夏にお白石持行事に参加し、遷宮前の白木の匂う新御敷地に白石を敷いてきたので、感慨は一入であった。「雲の峰」主宰 朝妻力さんも誘ったのだが、その折、次の句を教えてもらった。 御座敷を見ればいづれも神無月 守武
一人時雨のふり烏帽子きて 宗鑑 荒木田守武は室町時代末期の伊勢神宮の禰宜で、現在に続く伊勢俳諧の祖である。山崎宗鑑も同時代の俳諧師で、足利将軍家に仕えたが、後に剃髪して山城の国、山崎に住んだ。右の句はこの時代を代表する俳諧師の掛け合いである。守武が俳諧の席に来て見回すと、すべてが僧形であることに気付く。句の「神無月」には「髪(かみ」)が無い」という言葉が隠されている。守武が「見渡すと髪の無い人たちばかりですね」と呼びかける。すると山崎宗鑑が「一人だけ烏帽子をつけた有髪の人が来ましたね」と答える。「時雨のふり」には「降る」と「古い」が重ねられているのである。 このように高度な俳諧味のある言葉の応酬があったのだが、この二人こそ、俳諧が連歌から独立する気運を醸成した立役者である。宗鑑が選したとされるものに『犬筑波集』がある。そもそも『古事記』以来、筑波の道という言葉がある。これは『古事記』の中の日本武尊の東征のくだりの下記のやりとりから名付けられたものである。 にひはり筑波を過ぎて幾夜か
日々並(かかな)べて夜には九夜日には十日を火焼(ひたき)の老人 日本武尊が筑波を過ぎて何夜過ぎたのであろうか、と呟くと、甲斐の酒折宮の老人が答える。つまり一つの歌を二人で歌うという連歌──デュエット──の始まりである。この歌から連歌のことを「筑波の道」と呼ぶようになったのである。この筑波の道に対し「犬」を冠したのが宗鑑の『犬筑波集』であり、従来の連歌とは袂を分かち俳諧の道に分け入る決意が籠められているようである。 さて今月の句に〈守武の忘れ沓とも鴛鴦の池 眞理子〉があった。古い季語に「鴛鴦の沓」がある。二羽並んだ鴛鴦が神官の履くぽっくりに似ていることからつけられた言葉である。右の句は「池の中に二羽並んだ鴛鴦はまるで伊勢神官荒木田守武が忘れていった沓のように見える」という意味である。実に高度な表現の句で、あっと驚いたのだが、この句から前述のような連歌から俳諧への変遷のことを思い出したのである。 |
俳句を始めた翌年か、父が井月の句集を送ってくれた。墓の写真を見て〈井月の墓どこからも雪解風〉を作り出句したところ、先生から随分褒められた。後の酒宴で皆から墓の様子を問われたが、実は行ったことが無く困惑したものだ。先生にこの句があることは後から知った。既に先生は井月の墓を訪ねていたのである。親しかった井本農一先生あたりから聞いておられたか……。雪解けの野にいち早く咲く犬ふぐりを配した挨拶句である。 (昭和55年作『山晴』所収) |
猟期の緊張感が伝わる句だ。初猟であるからなおさらである。暁闇の中一切無言、船を出す合図も「眴(めくば)せ」だけである。湖は静まり返っていて水鳥たちも半ば夢の中である。初猟の最初の静かな動きを捉えて出色である。このあとの湖の修羅場も想像が及ぶのである。 |
東北は山寺の頂上の堂内や恐山などを訪ねると若者の結婚記念の絵や合成写真のようなものが壁に掛けられているのを見ることができる。最初は意味がわからなかったが、例えば夭折した子息が指折りかぞえると二十歳になる頃とする。せめて絵馬の中だけでも結婚させてやろうと、花嫁の絵を添えて掲げるのである。「瞑婚」という言葉は今回初めて知ったが悲しい風習である。この句は戦死した子息に娶らせたのである。「雪の堂」に浄化させた思いが潜むか。 |
一つに「真四角」という切り取った表現で成功した句である。校庭は、長方形も含めて四角形。冬日は遍く周辺を照らすのだが、なにもない校庭の冬日は特に目立つのである。ほとんど影というものを持たない冬の校庭を描いた見事な措辞である。 |
漁火が星となるーー何とも美しい句である。私は下北半島の下風呂温泉から見たことがあるが、意外な近さに黒々と北海道があり、点々とした漁火から地球の丸さまでが解るようであった。津軽半島北端の竜飛崎であればなおさらであろう。「星となりたる」の断定も悪くない。 |
この句のように零余子は零れ易いもの。少し蔓を引いただけでぱらぱらと落ちる。これを紐の切れた数珠にたとえたところが的確である。大きさも似ているようだ。思えば「零余子」という字は不思議だ。やはり「零れ」易いところからきているのであろうか。漢字の面白いところだ。 |
聖夜であるだけに「天界へ」の言葉の持つ意味が深い。 |
「柿明り」がいい。「暮れがての嬥歌の里や」とも。 |
トランジットと言う場面設定がいい。「倫敦」が動かない。 |
手紙を焚くという句はあるが、大志を放り込むとは! |
冬支度に取り合わせるに、やや意外感があるところがいい。 |
麦処の甲州だけに甲斐駒がいい。「真直ぐに」が効く。 |
当然のことなのだが・・・詩に昇華している。 |
大和三山であろう。山の低さが感じられるのである。 |
冬麗の中に響く異質な音。適度な離れ具合がいい。 |
裏と表の劇的な違いを詠み取った。 |
一昔前はこんなことがよくあった。地域共同体の良さ。 |
忘れた頃ぽつんぽつん咲く様子を捉えている。 |
空気が乾燥し始めた頃だけに、配合の良さである。 |
近く、遠く――――。猟犬の声だけで猪狩の様子を伝える。 |
伊藤伊那男
文化の日とはもともと明治天皇の誕生日である明治節で、意義は異なるが戦後「文化の日」として国民の祝日となった。「自由と平和を愛し、文化をすすめるために国民がこぞって祝い、感謝し、記念する日」とある。私にはどうも意味があいまいな日で、誰の句であったか〈パチンコの玉がじやらじやら文化の日〉などという句が好きである。この句も同様にアイロニーを湛えているところがいい。文化の日の胡散臭さのようなものが読み取れるのである。 |
信州にいた頃は秋の一日、「衛生の日」というような名称で町全体が大掃除をする日と決っていて、畳を上げてDDTを撒いたり、障子を貼り替えたりした記憶がある。さてこの句、立て掛けた障子の枠から見慣れた山河が見える。額縁に入った山河である。障子紙の有る、無しのギャップが鮮明である。 |
白鳥といえば〈白鳥という一巨花を水に置く 中村草田男〉を思い出す。この句はその本歌取りの句ともいえようか。活動中の白鳥を巨花とすれば、眠りに就くときの白鳥は蕾ということか。羽の中に首を埋めた様子を蕾と見た発想は見事である。 |
子供の頃見た「楢山節考」という映画が怖かったことを思い出す。口減らしのためにある年齢に達した老人は山に入る。さてこの句、老人が先達となって茸狩に入るというのである。その山の名は姥捨山。先の伝説の残っている山である。少し怖さを含んだ俳諧味といえようか。 |
いつも正面を向いている案山子である。仰向けに寝かせれば青空を見る。捨てられて、その後片付けられるまでの間ひたすらに青空を見ているのである。「たつぷり」にユーモアがある。擬人化表現の楽しさだ。 |
向島百花園などに萩のトンネルがある。私の好きな句に〈同窓会へ萩のトンネル抜けにけり 柚口満〉がある。萩は花期が終ると翌年の発芽を促すために根元から刈り取ってしまう。つい先日迄日陰を作っていた萩のトンネルが、今は青天井になった、とその変化に驚くのである。 |
郷里に残り、家を守ってくれている姉を思うのである。もう木守柿の候であろうか、鳥の為にいくつか残す柿の実であるが、一人住まいの姉も見守ってくれているであろうか------と無事を願うのである。「守る」のリフレインの効果。 |
「松の声は松に聞け」とは俳諧の要諦。これを「松手入」に取り合わせたのが手柄である。確かに植木職人は木の性質を見ながら、つまり木の声を聞きながら剪定をしていくのであろう。対象物の本質を知らなければその対処方法も立てられないということであろう。 |
先に取り上げた杉阪句の障子洗ふは写生から抒情へ飛躍した句だが、こちらは細かくこの作業だけを観察した写生句。一旦洗ったもののよく点検するとまだ所々に糊が残っているというもの。読者を大きく頷せる説得力を持つ。それは皆が見逃していたことを詠み取った発見があるからだ。 |
熟柿をよくよく見た句である。手にもとったのであろう。同じ柿でも熟した方が重く感じられるのであろう。眠ってしまった子供が重く感じられるのと同様なのであろうか------。「薄皮のつつむ」の上五の導入もいい。 |
その他印象深かった句を次に
月の遍歴
中村孝哲(なかむら こうてつ) 平成22年9月より銀漢句会に参加。22年「銀漢」創刊に同人参加。東京都在住。 |
大和路にて 飯田眞理子(いいだ まりこ) 平成2年「春耕」入会。6年「春耕」同人。16年度「春耕」新人賞。23年「銀漢」創刊に同人参加。俳人協会会員。 |
祈りの島 坂口晴子(さかぐち はるこ) 昭和49年「沖」入会。59年「沖」退会。61年「西陲」入会。平成3年俳人協会会員。23年「銀漢」入会。 |
西陣 朽木 直(くちき ちょく) 平成20年「銀漢句会」参加。22年「銀漢」創刊に同人参加。「宙句会」幹事。愛知県田原市出身。 |
商ひ屋 有澤志峯(ありさわ しほう) 平成21年「春耕」入会。22年「銀漢」創刊に参加。24年同人。 |
黙といふ母の口伝 川島秋葉男(かわしま あきばお) 平成20年「湯島句会」設立時に作句開始。22年「銀漢」創刊に同人参加。 |
夜学 堀切克洋 ほりきり かつひろ 昭和58年生まれ。平成22年末より作句開始。23年「銀漢」入会、26年同人。 |
第4回「銀漢賞」「銀漢新人賞」選考経過報告 杉阪大和 第四回「銀漢賞」は平成26年6月に募集案内が出され、同年、10月1日締切で募集が行われた。その結果、同人より44編、会員より18編の応募作品が寄せられた。 10月20日付けで無記名の句稿が「銀漢賞」事務局の川島秋葉男氏より、選者の伊藤伊那男主宰、武田禪次編集長、杉阪大和の3名に送付された。約1ヶ月半の選考期間を経て12月7日、各選者が「銀漢賞」「銀漢新人賞」に相応しいと思う作品の予選会を開催。各選者は予め十編の作品を選び出して予選会に提出し、その中から2名以上の選の入った7編を予選通過作品とした。 各選者は七編を改めて検討し、7点から1点までの順位を付け、12月14日に最終選考会を開催した。得点の多い順に一覧表を作成し、それを基に総合的に判断した。今回は1位が同点のため、1点に絞るかどうか検討したが、それぞれ個性のある作品であり、順位どおり2名の受賞となった。 第4回「銀漢賞」は中村孝哲氏の「月の遍歴」と飯田眞理子氏の「大和路にて」に決まった。総合2位の坂口晴子氏の「祈りの島」と3位の朽木直氏の「西陣」を佳作、有澤志峯氏の「商ひ屋」と、川島秋葉男氏の「黙といふ母の口伝」、堀切克洋氏の「夜学」の三編を入選とした。 「銀漢新人賞」は、予選通過作品の7編全てが同人作品であった為、残念ながら該当者なしとなったが、予選では会員の作品が3編選ばれており、その健闘を称えたい。 今年は昨年より応募数が6編多かったことは喜ばしいことであり、意欲的な作品も見られた。第1回から比べれば、作品の内容や構成、旧仮名遣いや誤字などの基本的なことなどに留意した進歩の跡が見え、これまでの蓄積の上に応募されたことが、はっきりと作品に出ていた。しかし、選考の過程でまだ問題点や課題の指摘が多かったのも事実である。特に推敲不足は目立っていた。 20句に対し、何を詠むかという強い想いがないと、あれやこれやで五目飯のような作品になってしまう。手料理を振舞うのであればそれなりの心づくしが欲しいのである。 「銀漢賞」は現在の結社「銀漢俳句会」全体の力を象徴するものである。次年度は創刊5周年を迎える年として一層の充実を期待したいと思う。 尚、応募作品全編から主宰選の一句を掲載し、応募に敬意を表したい。 第4回「銀漢賞」の選考を終えて 伊藤伊那男 予選段階で上位三編に「月の遍歴」「大和路にて」「祈りの島」を入れていた。一馬身勝っていたのは「月の遍歴」であった。その構成は実に緻密である。一句目の季語「去年今年」で始まって20句目は「12月」と前後を固めて万遍なく季語を散らす。真中の10句目が「更衣」であるから折返し点である。前から5五句目と後から5句目に次の句がある。 春分の昼夜を荷に弥次郎兵衛 秋分の夜昼を荷に驢馬の背 弥次郎兵衛と驢馬に荷を担がせて左右のバランスを取るのだが、20句全体に対しても春分・秋分で季節の変わり目の均衡を保つ仕組みである。しかも「昼夜・夜昼」と変えた点も繊細である。20句に破綻した句は無い。私の好みで言えば〈8月の光の中に猫葬り〉は入れる必要が無く、〈柿の秋染み一つなき甲斐の空〉は地名ではなく「峡の空」であった方がいいのではと思った。全体でみると抒情を排し、知的で硬質な句群である。この点作り過ぎという意見が出るかもしれないし、私の作風とも違うが、真似ようにも真似のできない見事な句群である。あとから作者名を聞いて、昨年「山口誓子の山河」を連載した方であり、殊の外猫好きの人であることを知って大きく頷いたところである。 「大和路にて」は写生と抒情の調和の取れた句群であった。穏やかに温かく大和の山河をいとおしんでいる人の句である。観光客がスナップ写真や絵葉書で作った句ではなく、地下に眠る歴史にも思いを馳せているようだ。目に見えない地層も少し掘り起こした作り方を評価した。全体的には適温の湯に浸かっている感じだが、冷泉や熱い湯に読み手を引き摺り込む句が交っていたらと思うのである。 「祈りの島」は五島列島の隠れ切支丹の地を訪ねた句群である。連作であるが一句一句を独立して読んでも立ち上がってくる句が多い作品集であった。〈教会に被爆の煉瓦島渡る〉〈天の川黄ばむ黒ずむ踏絵帳〉などは印象の深い句であった。但し平凡な句もあり全体にややむらがあったことが惜しまれる。 その他高順位に挙げた句は「西陣」「夜学」であった。20句に挑戦するのは大変なエネルギーを要するものであるが、やり遂げれば必ず一段階成長しているものである。次回もたゆまぬ努力を期待してやまない。 武田禪次 今年も62編の力作を鑑賞させて頂き、その選考過程で感じたことを少々述べたい。 理屈を言えば、物理現象的にインプットのないものにアウトプットはない。俳句の世もその例外ではないが、ただDNAにインプットされたもの、幼児期に潜在意識にインプットされたものが、大きく作用することがある。古人は「三つ子の魂」と言ってこの現象を表している。本人の意識しないままに突然脳の鍵が開いて言葉や行動に結びつく。言語中枢形成期に外国で暮らした子供が、思春期になるとその言葉が突然理解できるようになったりすることなどが見られる。 今回の作品集を読んでいて、脳の引き出しから溢れ出てきた、言いかえれば「降りてきた俳句」と、脳の引き出しを整理して「引っ張り出してきた俳句」に分けられるのだということをつくづく感じた。選考に当っては、この二つの世界のせめぎ合いの中で改めて俳句とは何かを勉強させてもらった。 私が一番に推したのは川島秋葉男さんの「黙と云う母の口伝」であった。およそ俳句作品らしからぬ表題に戸惑ったが、大正生れの母上の過酷な人生が作者に慿り移ったような句が並び、まさに「降りてきた俳句」であった。また西原舞さんの「童」は、若い母親の子供への愛しみが、自ずから言葉となって「降りてきた」ように感じた。 銀漢賞となった中村孝哲さんの「月の遍歴」は、理路整然と思索家が隙なく練り上げた作品集で、俳句の文学作品であることに異論はなく上位で推した。ただ言葉を理解出来るものとこころを動かされるものとは別物であることは言っておきたい。また表題は説明的で推敲を要すると思った。飯田眞理子さんの「大和路にて」は、表題と固有名詞のコラボレーションで読ませるものであるが、惜しむらく作品の抑揚として大きくこころを動かす句が二、三欲しかった。 佳作作品では、坂口晴子さんの「祈りの島」は読み応えがあった。残念ながら四、五句が安易に流れていることが否めなかった。朽木直さんの「西陣」は好く出来ていたが、京都に親しみがあるかないかで難しい作品。入選の堀切克洋さんの「夜学」は、「も」の多用が読み手に「理屈っぽさ」と「押しつけ」を感じさせるように思えた。有澤志峯さんの「商ひ屋」は、暮しに密着した新鮮な視点に惹かれた。ただいずれも20句を整えることの難しさを改めて感じた。 日本の詩歌は、縄文、弥生人たちの神との交感の言葉が「祝詞」として脈々と流れてきたものであることを信条としている筆者としては、どうしても「降りてきた俳句」に惹かれるのである。 杉阪大和 選に当たっては基本的なことはもちろんだが、自身の志を問うという作者の姿勢や賞に挑戦する意識の高さが見えてくるかどうか、を大切にした。 1位には飯田眞理子氏の「大和路にて」を推した。氏は常に候補に挙がる実力者であるが、得意分野の神話や歴史のこれまでの作品はやや専門すぎる嫌いがあったが、今回は同じ視点でありながら平明で親しみが持てる作品であった。 2位には朽木直氏の「西陣」。西陣の地蔵盆を中心にその地の特色を丹念に見た吟行句の強さが随所に出ていた。 3位は中村孝哲氏の「月の遍歴」。個々には良い句があったが、作為、技に走り過ぎた感が作品全体から出ていたように思う。 4位に推した有澤志峯氏の「商ひ屋」は、日々の生活の中季節に添う詠み方に体験者としての力強さがあった。題のつけ方には工夫が欲しかったように思う。 その他予選では、山元正規氏の「伊根の舟屋」、山下美佐氏の「五月富士」に注目した。特に「伊根の舟屋」は骨法がしっかりしていて、地に足のついた詠み方は現在の「銀漢俳句会」の流れの中で評価したい作品である。 20句を投稿される前に、若干の時間を置き、自らの作品をもう一度客観化して眺め、句の並べ方なども含めて再検討することが大切である。次回もさらに多くの参加を期待したい。 伊藤伊那男主宰選 応募作品より一句(応募受付順) |
大きなマスクをしている人を見たのであろう。よく見ると耳も大きい。福耳である。その福耳で支えられたマスク。美しい場面というわけではないが、人が気付かない、人が詠んでいない特異な観点である。「福で支ふる」の表現の飛躍で、その人物像にも想像が及ぶ。同時出句の〈ひかがみに分かるる流れ障子洗ふ〉の写生力、〈燐(マッ)寸(チ)擦る顔のかげりや秋行けり〉の抒情、と技倆を高めているようだ。 |
冬構の作業をよく観察した句である。一人で運ぶ梯子であるから梯子の中心点の枠に腕を入れてバランスを取る。作者の感情など一切消去している。すべて見たままである。この素直な目が読み手の感動を呼ぶのである。「冬構」の季語との取合せが見事である。同時出句の〈新海苔の緑こぼして断ちにけり〉も「緑こぼして」がいい。 |
自分もそうであったが、子供は意味もなく動き回るものだ。鉄棒を一回転したと思ったらもう兎小屋の前。幼稚園か小学校の庭の様子を活写している。同時出句の〈きな臭き人寰(じんかん)の空白鳥来〉も白鳥と人の世を重ねて異色である。 |
こう言われてしまうと、うーむ、納得してしまう。鳥の中で確かに白鳥は重量級である。その分白鳥の夢は「重い」だろうというのである。これは一つの感性である。同時出句の〈蔦枯れて定まる影を持ちにけり〉は堅牢な写生句。〈冬隣中空つぽの五重の塔〉は読後におかしみを醸し出す。各々の句の独特の味わいを称えたい。 |
「天(てん)楽(がく)」とは天上界の音楽。「山廬」は飯田蛇笏・龍太の旧居。訪ねて風の声、山の音、その中から二人の句を聞こうというのである。俳人の至福の一時である。「山廬」を詠んで類例の無い句である。 |
同時出句に〈木守柿沈む夕日をはなさずと〉がある。冒頭句は高枝に残った柿の一果が残照をひとり占めしていると誇張して焦点を絞り込んだもの。もう一句も「はなさずと」と擬人化表現を用いたもの。物を見る目を養っているところを評価したい。 |
山本五十六のことであろう。育ったのは越後長岡。戊辰の役で壊滅した長岡は米百俵を元に教育に力を入れた。文武両道の教育で育った英傑が海軍大将山本五十六である。その身体を鍛えた土俵に今、ちちろが鳴くという。読後に歴史への感興を憶える句であった。 |
この頃は柿の地位が下ってしまったのであろうか。収穫されることもなく木に実ったままだ。私が子供の頃は各家の縁側にはたいてい干柿が吊るされていたものだ。故郷を離れた作者がこの季節になると思い出されるのが柿簾なのであろう。「粉噴く頃」に経験した人でないと詠めない実感が籠っているようだ。鼻の奥がつんとくる風景だ。 |
今の世にはなくなった「毛見」。この題で句を作るのは難しいのだが、なるほどこんな作り方があったか、と感心した句である。「千枚田のこんな所まで調べに来たのであろうか?」と。「ここにも来しか」の過去形がいい。 |
一読破顔の句である。「まるめろ」は榠樝の近似種。榠樝より丸みを帯びている。この句「丸のあとのめろの分が歪みだ」と。この遊び心がいい。最後の「かな」も切字ではなく疑問詞の「かな?」のように思えてくるのも楽しい。 |
東日本大震災を回想した句である。震災の起ったこの時間、賑やかな作業場がふいに静まる。近親を失った方も多い筈だ。ぶ厚いゴム手袋を脱いで合掌しているのであろう。時間をきっちり詠み込んで不動の句となった。 |
回想―句集『知命なほ』の時代(9) 伊藤伊那男 仲間で設立した金融会社が、バブル経済崩壊と共に見事に倒産したことは既に書いた。会社の清算業務を済ませ52歳の時に失業者となった。退職金はもちろん無い。ただ幸いにも長女は結婚しており、次女も製薬会社に勤めていた。他の仲間にはまだ子育て中の人もいたことを思うと、私などは恵まれていたのである。住宅ローンの返済も終わっており、他の借金もなかった。前ほどの収入はなくても妻と二人の生活費があればよい状態であった。半年ほど寺に通ったりしたが、一銭の収入もない生活というものは少しの期間であっても不安の募るもので、仲違いの原因にもなる。しかしどこかに勤めるとしても、古い金融知識しかないし、大負債を抱えて倒産した会社の元社長ということになると、どう考えても採用される見込みはない。それにもともと金融業には違和感を持ち続けており、もう携わりたくなかった。 昔から飲食に興味があり、高校時代、大学受験に落ちたら料理の道に入りたいと思っていたこともあったし、一度の人生、この際居酒屋をやってみようと思った。その決心を固めるために毎朝寺へ通っていたともいえるのだ。料理が好きと言っても系統立って料理を習ったことのない私は、丸の内のビルの中で寿司屋を営んでいる友人に、仕事を知るために手伝わせてもらうことにした。無償である。父の代からの寿司店であったが旧態依然とした寿司店であり、経営は危機的状況にあり、今後について相談を受けていたのである。数ヶ月手伝ったが資金繰りは益々逼迫してきており、高利の金にも手を出していた。ついに夜逃げ状態で閉店したい、との相談を受けた。私は閉店するのはいい、夜逃げをしてもいい、だが従業員である板前2人、アルバイトの女性5人の給与支払いと、少なくとも一月分の退職金は支払うのがけじめだと主張した。当然店主に金は無い。それなら数日前に支払った数か月分の家賃を取り戻してこい、と迫った。そうでなければ従業員が立て籠もるし、筵旗を立ててビルの中で騒ぐと家主に泣きつけ、と言った。家主は農林省管轄の法人なので騒ぐ理由は解る筈だし、脅しは効くと読んだのである。果してそのようになり、従業員は私に感謝してくれた。 数日後店を閉める時、出向いてみると板前さんとアルバイトの女性達が、ダンボール10箱ほどに使えそうな皿・小鉢・調理器具などを私のために用意してくれていた。放っておけば家主が一括してゴミとして処分するものであった。その皿・小鉢は12年経った今もその一部を銀漢亭で使っている。 平成十四年 やや寒の幻住庵の厠かな
みづうみの芯まで澄みて信濃かな 十六夜の妻と影踏み遊びかな 書割に夕日差し込む村芝居 地芝居の馬お捻りを集めけり 鳴き竜を鳴かせてゐたる芋の秋 人攫ひくるぞ綿虫飛ぶころは 剥がされしごとくに吹かれ冬の蝶 木屋町の一盞の間を時雨かな 雪折をくぐりて熊野詣かな 平成十四年―十五年 久女の墓ならば狐火点るやも
酢茎売比叡の雲を脊負ひ来る 平成十五年 しばらくは湯気吐いてゐる海鼠餅
左義長の灰浴びてきし睫毛かな くれなゐの喉見せたる寒鴉 棒鱈の汐木のごとく積まれけり 肝煎が寄付取りに来る春祭 接木してすぐ風音の生れけり こもりくの霞立ちたる観世音 酒場開業 知命なほ
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10月 10月14日(火) 宮澤サイパンへ出張。「俳句・平成俳壇」選句、1日遅れで発送。この12月号をもって私の選は終了とさせてもらう。 10月15日(水) 「三水会」3人と、淋しい。店は仲間が最後に残ってカラオケ大会の様相に。 10月16日(木) 「銀漢句会」あと16人。「週刊金曜日」伊達さん2人。大西酔馬さん、洋酔さん出版記念会あと転倒、骨折と。4軒はしごの末と……やってしまった……。私は3軒目で退散している。酒を飲むのも命がけ……。 10月18日(土) 12時、本郷の「鳳明館・森川別館」。42名集合、「鍛練句会」。 10月19日(日) 12時半、近くの「随一望」にて30数名で昼食を兼ねた懇親会.昼酒に酔う。 10月20日(月) 「演劇人句会」7人。角川「俳句」座談会あとの橋本榮治、横澤放川、津川絵理子、鈴木忍編集長。来月、店で「写真とコトノハ展」を開く幹事、倉田有希さん他。皆川文弘さん。 10月21日(火) 井月本ゲラ校正。店、超閑散。宮澤、サイパンから戻った翌朝から伊勢の撮影だったので久々会う。 10月22日(水) 店、対島康子さん久々。誕生日! シャンパンで乾杯、3本ほど。「北軽井沢句会」から「全国俳誌協会編集賞」受賞祝いの花束届く。三輪初子さんと長さん夫妻。 10月23日(木) 11時より、「シェ松尾青山サロン」にて「第5回全国俳誌協会編集賞授賞式・祝賀会」。受賞の言葉、やや緊張する。北澤一伯君、松本から来てくれる。デザインの馬場龍吉さんも。編集部の方々、8人と喜びを分かち合う。編集部は戻って11月号発送。店、広渡敬雄さん、鈴木忍さんら、登山の打ち上げ。 10月26日(土) 午後、「纏句会」あと風呂吹大根、題に出た鮭の酒蒸し、鮭と野菜の汁、握り。17時過ぎの上越新幹線に乗り、井月の故郷・長岡へ。昼から行っていた大野田君と合流。駅前の「松本」にて魚料理。長岡は駅そのものが城の中。あと、「たこの壷」という店。刺身、朴葉片肉、その他。最後は蛸めしまで食べて……もういけません。長岡グランドホテル泊。 10月21日(日) 今日も快晴。たっぷり睡眠、九時、行動開始。千手観音寺へ。井月の生家跡と言われる地。戻って二の丸跡お祭広場で牛スジうどん。長岡藩主・牧野家史料館を訪ね、長岡市科学博物館歴史研究室学芸係長の広井造さんに質問など。その足で中央図書館に行き、2時間ほど調べもの。14時過ぎから、駅ビルの蕎麦屋「小嶋屋」あと「あさひ山」昨夜寄った「松本」と3軒飲み歩いてしまう。大野田君はよく飲む人である。釣られて、ああ……。新幹線熟睡。 10月29日(水) 「雛句会」10数名。「銀漢」12月号選句、少し遅れて編集長へ渡す。これから文章の部へ。妻の従姉妹、川村悦子さん清水六兵衛と松坂屋名古屋店でコラボ展の案内。 10月31日(木) 悦子さんにメールを入れると今日、東京にいるとて夜、店に来る。年末、京都で飲む約束。天野小石さん、本日で木曜日のアルバイト引退とて、ファイナルデー。聞きつけて30数名ほど集まる。歌と踊り! 10月31日(金) 松川洋酔さん、句集『水ゑくぼ』出版祝賀会のおつかれさま会、20人。 11月 11月1日(土) 9時、吉祥寺駅北口集合。武田車、秋葉男車に分乗して蓼科へ。坪井車は前日から。昼、ほうとう鍋。武田山荘に荷をおろし、「滝の湯」へ。17時より、馬肉の刺身、馬肉すき焼き、鹿肉のウィンナシュニッツェル、煮イカ、鮑酒蒸しなどの宴会。恒例の会ながら、全国俳誌協会編集賞の受賞記念をかねて。12人。5句出し句会。私は坪井山荘へ泊。 11月2日(日) 8時、武田山荘で朝食。北八ヶ岳ロープウエイ駅にて3句出し句会。あと2400Mの坪庭を一周。諏訪大社神長官守矢史料館へ。諏訪大社の歴史を学ぶ。感動。16時半帰宅。家族で食事。 11月3日(月) 9時、成城学園文化祭へ。仮装行列の出し物や展示品。餅搗きなどを見る。昼寝。16時くらいに成城仲間5家族が来宅。計20人ほど。バーベキュー、ちゃんこ鍋、うどんすきなどで大騒ぎ。私もすっかりこの仲間に馴染んでしまって……また……。 11月4日(火) 「銀漢」12月号の原稿終了。いつもより少し遅れ、編集部に迷惑かけてしまう。角川から井月本、ゲラ校正の催促受ける。「春耕」の朱鷺の一句の選。「一茶・山頭火俳句大会」事前投句の選。「春耕賞」63編の選は2日後が締め切り。なかなか厳しい時間配分。ヘアメイクの中川さん来て散髪。 11月6日(木) 長女・桃子誕生日。今日から、家族、学校の受験休みを利用して伊勢・鳥羽〜大阪USJへ5泊の旅と。店、「十六夜句会」。本日より月1回、田所ゆきさん入店にて、日下野由季さん他来店。賑やか。 11月8日(土) 10時、運営委員会。昼、大野田さんと伊那行きの打ち合わせ。14時、「銀漢本部句会」。17時、退席し、ホテルオークラ東京・平安の間。「未来図」30周年祝賀会。ロビーで有馬先生と目が合うと「うちの者が世話になってますね」と飲む仕草。若狭男、中西夕紀さんと隣席。あと、行方、放川、忍、節子、光雄、土肥、未知子、小あくつ、高士、本井、真砂年さんと新橋へ出て「和民」で2次会。 11月10日(月) 「写真とコトノハ展」VOL.9(倉田有希さん代表)15時から展示作業。20数人が出展。中に、角川賞作家三人いると。初日とて大勢。発行所は「かさ〻ぎ俳句勉強会」あと12人。皆川文弘さん来店。米のお土産。 11月11日(火) 初子さん4人。清人さん「鮪と牡蠣の会」、出版関係者30人ほど。焼きそばも。 11月15日(土) 8時半、あずさ号にて茅野。大野田君迎えてくれて杖突峠から伊那へ。快晴。富士の白嶺を遠望す。高遠「ますや」にて高遠そば3種盛り。名店。井月の墓を詣で出版の報告。ベルシャイン伊那店文化ホールの「春日愚良子俳句展」。愚良子先生と面談す。15時半、ニシザワいなっせ店にて、竹入弘元先生と面談。お2人に出版のご報告をすると共に、いくつかの質問を。17時、小池百人さんと駅前「桜や」にて酒盛り。馬刺ほか。あと大野田君友人のラーメン店。ホテルに戻り2人で最終校正の調整。 11月16日(日) 朝、零下2度だったと。さすがに信州は寒い。昼過ぎに戻り。愚良子・竹入両先生の質問点などを加えてゲラ最終校正。 11月18日(火) 「三水会」5人。市毛唯朗さん4人。朝日新聞文化グループ・宇佐美貴子さんと望月周さん夫妻。「慶應茶道会」先輩・枡田さん夫妻。母上は行方克己さんの弟子。 11月21日(木) 「爽樹」環さん女子会7人。「港」編集部・折原さん5人。入れ替わりに「銀漢句会」あとの16人。その他賑わう。帰宅すると娘夫婦起きていたので一緒に飲む。 11月21日(金) 「蔦句会」あと6人。「写真とコトノハ展」最終日。12人打ち上げ会。清人さんの弟・和人さん夫妻、気仙沼から。歓迎の集い、30人ほど集まる。牡蠣、しゅうり貝、ムール貝など山ほど届く。兄上・信一さんから京都の鯖鮓・穴子鮓など。贅沢な宴となる。 △角川俳句ライブラリー 漂泊の俳人 井上井月 幕末の伊那に現れた出自不詳の俳人井月。その後家も持たずに約30年の半生を酒を糧に過ごした。俳句・書・高い学識を身につけながら、なぜ漂泊の生涯を送ったのか。知られざる素顔を探る唯一の入門書! ネットから抜粋しました。 伊藤 伊那男 (著) |