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5月号 2015年
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伊藤伊那男作品主宰の八句囀 伊藤伊那男
悪相を買はれ追儺の鬼の役 葱坊主にも長幼のおのづから 満願の湯に立てかけて遍路杖 朝雀軒よりこぼれ仏生会 おほかたは夕べに萎れ花御堂 臍乾く間もなき一日甘茶仏 風船にすがりてこの身軽くなる 今月の目次銀漢俳句会/5月号 銀漢の俳句伊藤伊那男
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◎朝妻力さんのこと 3月初旬に俳人協会の年次総会と協会各賞の表彰式があった。気働きのある朝妻力さんは、地方から来る俳人協会賞の若井新一氏、評論新人賞の青木亮人氏が、当日は泊りながら、パーティーのあと所属結社の集まりなどもない様子だということで、銀漢亭に縁の俳人を集めて祝った。笑顔で座を盛り上げてくれたけれど、その頃奥様はかなり深刻な病症にあったようだ。奥様が以前から病気を抱えておられることは知ってはいたが、「雲の峰」3月号の主宰日録を拝見して、ここまでの状態であったか、としばし天を仰いだのであった。 目録を少し引く。1月27日、家内昨日より何も食べていない。次女に応援を求める。30日、三女家内を済生会へ。そのまま入院。2月3日、家内退院。豆十粒ほど撒く。家内の部屋、浴室に緊急用ブザー設置。9日、家内浴槽から立ち上がれず。湯を抜いたので大事に到らず。12日、家内手洗いに向かう途中、膝をつき立ち上がれず。筋肉が極度に弱っている。14日、家内ベッドを降りようとして起き上がれず。15日、家内手洗いにて動けなくなる。家庭内介護限度か。三女に来て貰うが済生会行き拒む。(中略)説得して即入院………。その後逝去された3月12日までご夫妻は想像を越える苦悩の中にあったことと思う。その中で「雲の峰」誌の選句、発行業務、句会指導をこなし、2月4日には律儀にも僚誌主宰として「春耕」新年大会に日帰りで上京。私もお目に懸ったが、やはり笑顔を崩さなかった。 3月号の朝妻さんの句 春めくや自力で湯浴みせし妻も 春の日を浴びさせに押す車椅子 冴返る浴槽の妻抱き抱へ 見舞ふたび痣濃きかひな春遅々と 日録の中には朝妻さん本人も「喉痛し」「喉猛烈に痛し」「疲れ易し」「疲れ少々」──などという記述が散見する。朝妻さんは私より3歳年上の69歳。そういえば1月号に とは言へどやはり老いたり年忘 力 の述懐がある。アクセルを踏みっぱなしの朝妻さん、今後は義理や気配りは少し横に置いて、のんびりいこうではありませんか。 私の妻が死んだ九年前、次の弔句を戴いた。句集『伊吹嶺』に収録されている。 大寒の握り拳を弔意とす 力 謹んで故真知子夫人のご冥福をお祈りする。 四温まで一日を待たず逝かれしと 伊那男 |
「 (平成10年作『高幡』所収) |
私の痛恨事の一つは百人一首を覚えなかったこと。歌留多を知らずに今日に到ったこと。百人一首の解説などは何冊も読みかけたが途中で挫折している。短歌が暗記できず苦手なのである。短歌に向く人、俳句に向く人の違いなのであろうか。さてこの句、作者が拾うのは世捨て人の札ばかり、一口に言えば坊さんの札ばかりということであろう。ここにも得手、不得手があるということか。歌留多の句はさんざん詠まれているが、この観点から詠んだ句はめずらしい。 |
琵琶湖には「魞(えり)」という独特の漁がある。水中を竹簀で囲み魚を迷いこませるもの。「魞挿す」は春の季語である。浮御堂は湖西堅田港の横。魞を挿したり繕ったりする作業が浮御堂の岸辺まで寄せたのであろう。もちろん幽かな波の筈なので「波かや」の表現にとどめたのであろう。 |
人の心理は面白いもので、種を買う時に、その袋を振ってみる人が多い。この作者もそうしてみたのであろう。賑やかな音の種なら勢いもよく、きっと楽しませてくれるだろうと思いこむのである。この句は普通なら、音のする花種の袋を買うとするところを「音を買ふ」とすり替えたところがミソで、詩的昇華を果たしたのである。 |
もう使われなくなって久しい絵踏板が博物館に展示されている。かつて厳しい取り締まりの探索に使われたその道具は、摩滅しくすんで置かれているのであろう。何も語らないが様々な哀史がその上に繰り広げられていたのであろう。そういえばこの句の「沈黙」は遠藤周作の同名の小説の連想なのかもしれない。「踏絵板」の方がいいのでは? |
高浜虚子が杉田久女を嫌った理由は今でも不明だが、私もこの句の言う「俳句への一途さ」のような気がしている。俳句は余技とは言わないが、各々が各々の仕事を持ちながら励む文芸であり、俳句しかない、という一途さや気迫を鬱陶しく思ったのではなかろうか。そんなことを思う。 |
同じ巣で育った鳥たちにも成長の早いもの、遅れているものの差が生じる。強いものは餌をいち早く得るし、弱いものは後廻しで喰いっぱぐれもある。巣立つのも遅く、もたついているのである。そんな巣立ちをよく観察した句である。 |
「針一本」と言い切った単純化がいい。 |
「たとうがみ」と読む。年に一度の一張羅。 |
靜溢は中、喝に燭までが揺れると見たのが眼目。 |
こんなことは度々あるが、万愚節だからこその一句。 |
桜の芽の膨らみようを詠んで出色。花を待つ心を思う。 |
回転寿司という句を初めて採った。この句なら合格だ。 |
私も好きな場所だが夜などは怖い。「春風」の斡旋がいい。 |
筑波山麓。かつては嬥歌の地に蓬を摘む。抒情のよろしさ。 |
遠流の公家の趣。値が付けられているのが悲しい。 |
さて、鬼はどこに逃げるのであろうか? |
さて、どこから顔を出すのかと眺めると同じところから。滑稽味。 |
母の思い出。「針髪に」とする方が中七に繋がるか。 |
花筏らしくなっていく様子をよく捉えた。 |
いい所を詠んだ。下五は「冠」「衣を」で五音に納めたい。 |
伊藤伊那男
丹頂鶴の赤い部分を「種火」と見立てたのがこの句の眼目である。動かない凍鶴だけに種火の感じが生きるのである。鶴の身体全体がマッチの軸のようにも見えてくる。 |
秋田県横手地方の小正月の行事「かまくら」。句は翌朝にも何かしら暖かみが残っているという。雪のかたまりの中なのだが、子供達の団欒の様子などが偲ばれるのであろう。点していた「蠟涙」に焦点を当てたところが具体的でいい。 |
石川啄木は二十六歳で死んだ。新聞記者として小樽、釧路などに赴任していたので、この句はそのあたりの嘱目ということになろう。啄木は志が得られず、不満を抱えて生きた。「流離」の措辞が生きているのはその人生を象徴する言葉だからであろう。「雪残る」に啄木の悲しさがある。 |
ずっしりと重い鶯餅を摑めば凹む。その凹んだ部分が嘴の形に見えたという。そんな楽しみがこの菓子にはある。一つの菓子からこうした遊び心が生れるところがいい。 |
積った雪の反射であたりが薄明るくみえるのが「雪明り」。あのぼんやりとしたあたたかみのある明りだけを一物仕立てにして出色である。確かに「明るくも」なく「暗くもなく」――誰もが詠めなかったところを詠んだ。 |
透明な身体を持つこの魚の特徴をよく捉えた句である。その魚体そのものが「水のかたちの一つ」のようでもあるという。若干の疑義を持ちながらも諾わざるを得ない説得力を持つ。 |
抒情の濃い句である。初夢に見た母親が手毬をついている。だが現実ではないためにつく音はない。もちろん手毬唄もない。恐らく色もない映像であろう。七十歳を超えた作者が今もなほ母の夢を見る。泣かされる句である。 |
節分の豆を年の数だけ食べると良い事があるという。子供の頃はよかったが、年を重ねるとそういう訳にはいかない。ましてこの作者は八十粒以上になるであろう。掌にのせて見るだけだ。だがこの一粒一粒が来し方の思い出の数。生きていればこその「幸の数」である。 |
巣から落ちてしまった雀の子を助ける。おのずからその掌は「巣のかたち」になる。それは労りと愛情の形である。あたたかさが子雀にも伝わり、子雀の命の鼓動が作者に伝わるのだ。 |
思わず笑ってしまった。正直である。技法的にも、この季語の句は字余りになることが多いが、句またがりでうまく折り込みすっきりとまとめているのである。さてこの二個は娘さんと------もう一つはお孫さん?いやいや------。 |
針供養の句を三句。一句目は針仕事で生活を支えてきた人の針、と具体的。二句目は一本の玻璃に絡む家族の歴史。三句目は浅草寺の淡島堂への道を問われたという。教える事ができるのは自分も針供養をしたことがあるからでそこに物語が潜む。それぞれの針供養である。 |
私の郷里の木曾駒ヶ岳には種播き爺、島田娘などという雪形が出る。私達でもようやく解る位であるから、他の人には理解不能であろう。この句、旅人の句で、よく解らないまま頷く様子が面白い。上質のユーモアである。 |
その他印象深かった句を次に
広重の富嶽三十六景などに手前の景物などが思い切り大きく描かれた極端な遠近法がある。この句もそうした手法の句である。菜の花畑の向う側に加波山や筑波山が見えるのだが、それらの山は菜の花よりも丈が低いというのである。常陸に浮かぶ、「波」の付く二つの単独峰を並べて調べがいい。同時出句の〈手のひらに受けて不惑の年の豆〉も「不惑(惑わず)」と言いながら、どこかに戸惑いが感じられる微妙な心理状態が滲んでいて面白い。 |
「歌留多」の句は沢山見てきたが、予備札を詠んだ句は初見である。よくこんなものに目が届いたものだ、と感心した。結局一度も使ったことがないままなのだが、白いままながら全部の札と同じように古びていくというのである。着眼点を称えたい。同時出句の〈家計簿の目次に挟む初写真〉も家計簿を介して家族の絆が描かれている。初写真がいいのだ。〈紙漉女胸に火照りのありぬべし〉は言い過ぎか・・。 |
春到来の嬉しさのよく出ている句である。「歓喜たとへば」の表現がなかなかいい。そのたとえばの「雪解」には、雪解川、雪解風、雪解光、雪解雫、雪解野などの季語が全部包括されているのである。 |
すっかり見なくなったが「万歳」は獅子舞などと同じように正月の門付けである。その万歳も来ないような「鄙の家」だという。古典的題材で、しかも古典的な作り方だが、今どきこのような句があることも楽しい。古き良き時代の正月の一景である。 |
牡丹の芽に面白い比喩を付けたものである。明朗は噓やごまかしが無く、明るく朗らかなこと。豁達は度量がひろく物事にこだわらず、こせこせしていないことである。いずれも前向き。花の女王といわれる牡丹だけにそれぞれの芽も明るいのである。同時出句の〈揚雲雀これより上は乱気流〉も「乱気流」の意外性がいい。 |
ここで言う節分は「豆撒き」行事を言うのであろう。だいたいは家長の男が先頭に立って大声で唱えるものなのだが、さて女所帯ともなると‥‥近隣をはばかって声も小さめ、豆なども置くように撒くのであろう。「それなりに」にそうした様子が如実である。同時出句の〈旧正に律儀に来てはくだを巻く〉も、ああ、こんな人を知っている、と共感を持つ。各々に含まれる俳諧味に味わいがある。 |
確かに一本の針ながら生活を支えてきたかもしれないし、家族の衣類を繕ってきたものであろう。そうしたことを「それぞれの布」と一言に纏めた省略がいい。同時出句の〈紙風船残し薬屋跡絶えしか〉もほとんど見なくなった薬売りを偲んで出色である。薬の匂いの染みこんだ紙風船だけが残っているのだ。 |
ぬめりのある海鼠は摑み難いものだ。塗箸などであればなおさら。しかも話しながらであるから気もそぞろで、箸はさ迷うばかりである |
確かに燕は鎌の形。かって津山に行った折、鍛冶屋が残っていて燕が出入りしていた。夜も出入りできるようにしてある。鞴の火の上を燕が飛翔する風景を思い出した。 |
「寒立馬」は季語ではなく、下北半島の野生馬。よくぞあの酷寒の地に棲息しているものである。「仔を風下に」の把握がいい。同時出句〈芹青む心の鎧脱ぎしとき〉〈吊されし鮟鱇天を喰はむとす〉も出色。 |
回想―句集『知命なほ』の時代(12) 伊藤伊那男 伊那谷での幼友達に丸山明君がいた。「いた」と過去形にしたのは五十三歳で亡くなってしまったからである。その名前の通り、小さい頃から丸々と太っていて、また朗らかで周囲を笑わせていた。高校三年生の時、進学先別に、国立理科系コース、国立文科系コースにクラス分けの選択があり、一クラスだけそのどちらにも入らないクラスが設けられていた。数学が数2Bまでで止まるクラスで、進学についての期待もないし、期待もされていない一群を集めたクラスであった。私は極端に数学が弱かったので躊躇なくそのクラスを選んだ。そこに集まったのは野球部をはじめとする運動部の猛者で、しかもその中の落ちこぼれ、あるいは美術系志望者などのおたく組、それと私などのようにはじめから国立大学の受験など諦めた、私立大学志望の者達であった。運動部員は朝から弁当を食べているし、私達は鞄の中にウィスキーのポケット瓶が入っていたりであった。丸山明君もそのクラスにいて、私よりも数学は少しできたので試験の時は後ろから解答のサインを送って貰い、危機を脱したことがあった。 丸山明君は私立大学を出て家業のガソリンスタンドを継いだ。五十歳の頃市議会議員に当選した。その選挙の折には私も帰郷して最後の一日、選挙事務所に入り、選挙カーについて歩いた。 丸山君は東京に度々来ていたようだ。そんな時には電話があり、「マキシム・ド・パリを予約してあるんだけど」とか「オテル・ドゥ・ミクニはどう」とか「藪蕎麦へ行かない?」などと連絡が入った。東京に住んでいる私もほとんど行かない店へ堂々と入る美食家であった。私が帰郷する時は酒を飲まないのに何があっても付き合ってくれたし、本人は全く興味がないのに、伊那谷の祭見物などにも私のために車を出してくれた。 そんな丸山君はいずれ市長になるだろうと目されていたが、二期目の選挙戦の前に心臓バイパス手術の点検に入ったが、その途中意識不明となった。病床を訪ねたが、声を掛けても反応はなく、そのまま亡くなってしまった。妻と二人で葬儀に参列し、私が友人代表として弔辞を捧げた。癌の転移が進んでいた私の妻はその二年後に死んだ。もう十年ほど前のこととなるが『知命なほ』の時代―五十歳台―は人との別れが始まっていく時期であった。丸山君の墓は同じく同級生が住職を務める寺にある。墓石は上部が大きな円形で、一目でその体型、風貌を想起させる作りである。 丸山君の柩の上にそっと置いた句がある。 西へ行く冬雲を君落ちるなよ 伊那男 確かそのような句であったと思う。句集には載せていない。 平成十六年 足早な龍馬の国の夕立かな
蝉生れ出て七曜のまたたく間 将門の塚訪ふ日雷のなか 恐山乾びきつたる蓮の飯 わが死後は銀漢に骨撒くとせむ 鶏頭のくろぐろとある夕べかな ときをりは遡りつつ鮎錆ぶる 蛇穴へ入り松籟の募り初む 吾亦紅活く枯るるとも枯れぬとも ある朝付け火のごとく曼珠沙華 色鳥の枝移るたび色散らす 男にも泣きどき鰯雲のころ 秋蝶の影ばかり濃くありにけり ぐづる子をとんぼの空へ肩車 自然薯を掘りたる穴に夕日かな 東大寺風呂桶ほどの落葉籠 てのひらを逃げてのひらへ雪ばんば 足袋ついでノラのことなど知らぬ母 炭はぜて遠野物語は佳境 虎落笛座敷童の消えてより |
伊藤伊那男主宰の近著『漂白の俳人・井上井月』が平成26年12月25日に(株)KADOKAWAから刊行されました。近年俳人としての井上井月に対する位置づけの見直しが進む中で、伊藤主宰は井月の俳句を通して謎の多い実像に迫る試みをされます。井月の人となりを知る一書として、また井月俳句への入門書として高い評価を得ております。著名な文人、俳人の方々が、いろいろな機会にこの著書を取り上げて紹介されております。是非、読んで頂ければ存じます。 |
読売新聞夕刊版・井上井月の記事(2015/4/4) そのまま忘れられておかしくない男が今、なぜか熱い。北村皆雄さん(72)の映画『ほかいびと伊那の井月』(2011年)の公開後、復本一郎編『井月句集』(岩波文庫)が出版され、作品を味わいやすくなった。伊藤伊邦男『漂泊の俳人井上井月』(角川学芸出版)、北村さんの『俳人井月』(岩波現代全書)など初学者向きの本も相次ぐ。記事から抜粋。 △PDFへリンクします。 |
帯の紹介文から・・・ ひたすら芭蕉を慕い、山頭火に影響を与え芥川龍之介を唸らせた明治初期の俳人・井上井月。だがその正体は長い謎だった。酒好きで、家も財産も持たず、伊那を約30年放浪した男の知られざる素顔を、近年発見された日記、資料、俳句から探る。唯一の入門書。 |
拡大します。 |
ひたすら芭蕉を慕い,山頭火に影響を与え、芥川龍之介を瞠目させた。その謎多き生涯を俳句と資料でたどる。井月の素顔が分かる唯一の入門書。135句の名句鑑賞付き。 KADOKAWA HAIKU 『俳句』 広告文より・・・。 |
2月 2月11日(水) 11時、如水会館にて「かびれ」1,000号祝賀会。かびれは盤水先生が若き日に学んだ結社。二次会も声を掛けて下さり、スピーチ。駒ヶ根市の会員9人が参加していて、1人は私と同じ町内の雑貨店、桜屋のおばちゃん(竹入さん)。あと渋谷に出てまたふらふら、ああ……。 2月12日(木) 池田のりをさん「銀化」「慶大俳句丘の会」の毬矢まりえさんと。山崎祐子さん、画家の宮瞳子さんと。オリックス時代の中野さん、井月本のサインを、と来店。有り難し。 2月13日(金) 店、「大倉句会」14人。石寒太氏より電話。7月の隠岐島の俳句大会の選者でと依頼。嬉しいが、店を休むかどうか……。 2月14日(土) 10時 発行所にて銀漢運営委員会。来年の5周年新年会のことなど。昼「いもや」の海老天。「銀漢本部句会」は麹町区民会館の和室。54人でギュウギュウ詰め。あと「はなの舞」にて親睦会。帰路の電車にて「秋麗」主宰・藤田直子さんとばったり会う。家族は早朝から苗場へスキー。 2月15日(日) 隠岐島行き決定し、寒太氏に連絡。14時 丸の内「KITTE」6階「十六夜句会」の東京駅吟行に誘われる。14人。新装ドーム、5・6番線ホームに残る開業当時からの鉄柱の飾り、首相遭難碑、北町奉行所跡の碑など。ギャラリーも見応えあり。あと八重洲の料理店「初藤」にて句会と酒盛り。 2月16日(月) 阪西敦子さん誕生日の集い。今井聖、望月周、日下野由季、村上鞆彦さんなど来て20人程で祝う。発行所「演劇人句会」8人程。国会議員のT先生、井月本読んだ! と。皆川文弘さん「ビッグコミックオリジナル」に俳句の漫画あると。 2月17日(火) 雪。発行所、鳥居真里子さんの超結社句会「駿の会」。あと店へ6人。店、「俳句」3月号用「俳句で夜遊び、はじめました」で超結社「火の会」の取材で岸本葉子さんと角川のスタッフ。卓田謙一、佐怒賀直美、広渡敬雄、齋藤朝比古、峯尾文世、太田うさぎ、天野小石、阪西敦子さんの面々。 2月18日(水) 高校同期「三水会」7人。毎月集まっているが、話は尽きない。水内慶太氏より庄内の寒風干しの鮭一本到来。御本人も見える。スライスして皆でいただく。大野田さんと事業部、「井月忌の集い」の打合せ。こしだまほさんの手配で読売新聞3月3日の夕刊にもイベント案内に載ると。「俳壇」3月号の俳壇時評に「秋」主宰・佐怒賀正美さんが2頁にわたり井月本紹介して下さる。 2月19日(木) 「銀漢句会」あと16人。村上鞆彦さんと「俳句界」の山口亜希子、青木美佐子さん。 2月21日(土)・22日(日) ヘアメイクの中川さん来宅。カット。4月号の選句。杏、孫、久々来宅。杏、4月出産にて大きなお腹。「白魚火」名誉主宰 仁尾正文氏逝去の報。昨年700号祝賀会にお招き戴いた。 2月23日(月) 金井さんの台湾旅行の土産からすみ。先週は眞理子さんも台湾旅行でからすみの土産。各々特上品! からすみ長者である。「炎環」主宰 石寒太、三輪初子さんなど「毎日俳句大賞受賞式」の帰路寄って下さる。 2月25日(水) 朝から原稿書き。雑務。店「雛句会」12人。活気あり。今日、「銀漢」へ2名入会。「月の匣」水内慶太、水香さん。5周年記念あと「銀漢亭」で二次会の予約いただく。22時、閉めてまた「ふくの鳥」。 2月28日(土) 「纏句会」つくづく、日本橋界隈の変貌に驚嘆。「与志喜」のビルだけが再開発に入らないと。烏賊のぬた、かますの酒盗焼。鯛の葉桜巻と若筍とあんかけ(桜鯛の題にちなむ)、握り。昔、勤めた会社周辺を歩いてみる。帰宅すると孫の学校仲間の親4家族が来て酒盛りの最中。参加して22時過ぎまで。……ああ、また…… 3月 3月1日(日) 4月号の執筆完了!午後、「春耕同人句会」で中野。あと「炙谷」似て親睦会。あと、池内、柚口氏らと「赤ひょうたん」を覗き、「未来図」の守屋、新海、石地、冬馬、央子さんらと合流。 3月2日(月) 郷里の従兄弟、4月の駒ヶ根市議会議員選挙に立候補すると。店、「かささぎ俳句勉強会」あと10人。望月周夫妻。「俳句四季」五月号「一枚の絵」のエッセイ送る。 3月3日(火) 俳人協会賞授賞式あと、受賞者の若井新一、青木亮人さんを朝妻力さんが店へ案内。山田真砂年、佐怒賀直美、しなだしん、櫂未知子、阪西敦子、橋本直、亀割潔、広渡敬雄、池内けい吾、柚口満、松川洋酔さんなど……。帰路、成城駅下車時、足がつる。 3月4日(水) 北村監督、平澤、大野田さん、「井月忌の集い」の打ち合わせ。毎日新聞の鈴木琢磨さん久々。「きさらぎ句会」あと八人。「宙句会」あと七人。終って、大野田、一斗、礼奈と一軒。 3月7日(土) 島谷高水句集のチェック。18時過ぎ、谷岡さんと下北沢に待ち合わせ。同人・大山かげもとさんの茶苑訪問。お元気!茶師十段の御子息とも。茶の話などお聞きする。近くの甥の宝飾店も覗き挨拶。19時、ザ・スズナリにて会員・田岡美也子さんの出演する劇「バリカンとダイヤ」を観る。あと、洋酔さん他、銀漢メンバーで田岡さん囲み親睦会。23時くらいまで。 3月8日(日) スクワール麹町にて「井月忌の集い」。200名ほど。あと、近くの居酒屋。あともう一軒。ああ、また……。 3月9日(月) 望月周さんの俳人協会新人賞受賞を祝う会。高木加津子、阪西敦子さん幹事で十四人。 3月10日(火) 島谷高水句集の選句、序文送る。店「火の会」8人。新潟日報の大日方氏、宮通信社長、本井英、土肥あき子さん。 3月11日(水) 発行所、「梶の葉句会」あと、編集部、校正作業。 3月12日(木) 16時過ぎ、蟇目さんより電話あり、朝妻力さんの奥様逝去と。何と!先日届いた「雲の峰」日録で厳しい状況を知ってはいたが……。店、毎日新聞の鈴木琢磨氏。「天為俳句会」対馬さん他。新海あぐりさん。……閑散。 3月14日(土) 10時、運営委員会。昼、「いもや」の海老天。この頃、胸焼けなし。「銀漢本部句会」52人。あと、「随一望」にて親睦会。 3月15日(日) 終日家。エッセイ二本書く。久々、家族と夕食。春野菜を食べる会とする。独活のキンピラ、山葵の花のおしたし、菜の花のおしたし。うるい、島らっきょ。桜海老、春野菜の天ぷら、鯨のステーキなどなど。 |