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伊藤伊那男作品新年号・主宰の一句 千年を借景として初比叡 伊藤伊那男
主宰の八句 後の月 伊藤伊那男
木菟の夜を浅井の姫の話など 勾玉のやうみささぎの烏瓜 かはらけに賜ふ早稲酒三輪詣 もう母に届かぬ便り後の月 高空を風ががうがう酉の市 東京の空青ければ秋刀魚焼く 牡丹供養七彩の火を尽しけり 柚子届く火迺用心の御符添へて 今月の目次銀漢俳句会/1月号 銀漢の俳句伊藤伊那男
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「銀漢」の俳句 伊藤伊那男 ◎井上井月の木刀 伊那市で開催された第25回井上井月俳句大会に、今年は講演者として参加した。その数日前に地元の井月応援団の細田伊佐夫さん、宮澤宏治さんから電話が入った。かなり興奮した声で「井月の木刀と思われるものが正木屋の蔵から出た!」というのである。 大正10年刊行の『井月句集』の中で編者の下島空谷が地元の人々から集めた思い出話「奇行逸話」の中に〈初めの頃の井月はぶっさき羽織に袴を穿ち、樫の木刀を差していたそうだ(御子柴太郎氏談)又、蓮根二節を鞘に蔓を巻きつけていたそうだ(飯島柳哉氏談)〉という記述がある。さて2年ほど前から宮田村の正木屋の開かずの蔵が、細田さん等の働きかけで開き、調査が始まっていた。 正木屋は酒造業を営み、当時の主人山浦山圃は学識が高く、蕪村風の絵も巧みで、また勤王思想にも共鳴していた文化人であった。水戸で決起した天狗党が伊那谷を通過したが、伊那谷は平田国学が盛んであったためか、あるいは戦禍を恐れたためか、食事なども提供し円満に通過させている。山圃は武田耕雲斎と意気投合し、耕雲斎は即興の漢詩を山圃に残している。井上井月はそれよりも数年前に伊那谷に入ったようだが、その初期の頃は山圃との交流が深く、正木屋には「井月が来ると半年ほどは逗留した」との伝承が残っているほどだ。復本一郎編『井月句集』(岩波文庫)の表紙の絵は山圃の筆である。酩酊した井月が額に手を当てて喜んでいる。井月の自署の句が添えてあるので、まさに二人の合作であり、深い縁が思われるのである。 その正木屋の蔵から、口述通りの木刀が出てきたというのだから井月ファンにとっては一大事件である。俳句大会の当日、細田さんと会い、その木刀に触らせてもらった。樫の木でできており、武具として十分に戦える重量感があった。蓮根二節半の形で、節の所で微妙な屈曲をつけている。半節の部分は柄で、断面には蓮根の穴も彫り込んである。柄の下には蝸牛が彫ってあるのが味わいである。井月は落款も自分で作ったといわれており、これが井月のものであるとすれば井月が自ら彫った木刀ということになる。伝聞通りのものであり、しかも伊那谷に入った初期に庇護を受けた正木屋の蔵から発見されたという状況証拠から見てこの木刀は井月のものであると断言してもよいのではないかと思われる。 今現在も毎年のように井月の俳句が新たに発見されている。まだまだこのあと何が出てくるか解らないのが井月の楽しさである。 |
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私が信濃の生まれであることが、この句に愛着を持った理由であるかもしれない。私の育った頃の林檎は「国光」という種類がほとんどで、小粒で酸味の強いものであった。たまに印度林檎などと呼んだ新種もあった。今は「富 士」。ぎっしりと蜜が詰まっている。毎年信州から林檎が届くが、触れてみてその冷たさを「ああ、信州の山気の冷えだ」と思う。そして信州の山々の風景が浮かび上がる。「伝へる」がこの句の味わいなのだと思う。 |
昨年の秋、山形県を訪ねたが、刈入れ時なのにほとんど「稲架」を見ることが無かった。もはや田圃に干すことはせず、そのまま工場へ搬送されるからだという。それはさておき、この句は稼働する精米所から伝わるのは新米の匂いだという。その違いは私には多分解らないが、豊作の喜びが十分に伝わるのである。 |
もはや一編の小説といってよいほどの物語的俳句である。結婚して二匹の秋刀魚を焼く時代があり子供二人が生まれ四匹の時代があり、各々独立し、本当は省かれているが、二匹に戻った時代があり、今は一人暮らしになったのである。秋刀魚の数だけで人生の軌跡を描いた逸品。 |
蛇笏、龍太の住居であった「山蘆」を訪問した嘱目であろう。<くろがねの秋の風鈴鳴りにけり>のその風鈴が今も鳴っているという、きっちりとした挨拶句である。本歌取りは日本の詩歌の伝統。こういう作り方もいい。 |
言われてみれば灯台は岬の先端にあるのだから「地の果て」である。そうではあるが「何処も地の果て」のフレーズはいい。訪ねたことのある、いくつもの灯台の情景が頭を過るのである。「秋夕焼」などという一見予定調和のような季語の斡旋も、また良いのである。旅情をくすぐられる句であった。 |
私も子供は娘二人。今一緒に住んでいる孫も上の二人は女の子。こういう句は実感である。たいがい妹が途中から顔を出して、姉がしぶしぶ半分譲る。日々その様な生活なのだが、「初鏡」の元旦の一番最初の作業を配したのがこの句の眼目である。毎日このような事が続くのである。 |
村歌舞伎だけにこのような場面も……後継も少ないか。 |
高山寺の嘱目。秋の声を生かした。但し字足らず。 |
義経の鞍馬山での日々を火祭に重ね合わせた。 |
源流がそのまま天の川に繋がるという幻想的な一景。 |
「竹」のリフレイン。最も美しい「竹秋」を配した手柄。 |
一矢で決めた初稽古。思い切って「弓始め」に変えるか? |
百舌の鋭声の比喩が的確である。縄張り争いの激しさ。 |
決まり過ぎのような書名と季語。これもまた良し。 |
上手な技法である。類想の心配は残るが。 |
こんな小さな川が全国区の固有名詞になるとは! |
地を這うような秋蝶の生態をよく捉えている。 |
幼い日の思い出の場所を訪うと、今も烏瓜が。 |
伊藤伊那男
「秋天に手を触るるごと」―うまいな! 窓を拭くのだが、それは澄み切った秋の空に直接触れているようだという。窓硝子も磨き抜かれているのだ。清潔感の溢れている句で、感性の鋭さを発揮している。 |
秋が深まると共に無惨に破れている芭蕉の葉。破れ具合により風音も微妙に変化してくるのである。この句、葉だけではなく、その音までが「ささくれてゐる」という。目だけではなく聴覚にまで持ち込んだところが卓越した技倆である。芭蕉葉だけを詠み切った一物仕立ての秀逸。 |
京都、冷泉家は藤原定家の流れを伝える和歌の師範の家柄。この家は天皇が東京に移ったあとも京都に残った。時々テレビなどで紹介されるが、風雅な伝統行事を守り抜いて今日に到る。折しも十六夜の月影に照らされているという。何とも典雅な詠み振りで、旅吟の域を超えて、この家の歴史に深く深く食い込んでいるようだ。若い頃京都の地で過ごした作者ならではの「根」のある句だ。 |
秋になると、ふと木犀の香に周囲を見廻すことがある。小さな花なので見逃すところだが、あの芳香の存在感は誰の足をも止めてしまう。屋根の上の風見鶏も木犀の風を確と捉えている、というのである。爽やかな一景である。 |
面白いところに目が行ったものである。大粒の丹波栗であれば、栗と御飯との間に隙間ができる。そんな馬鹿らしいほどの景を詠み取るのが俳句である。短歌では詠めない俳味なのである。重箱の蓋を開けて瞬時にこの句が出たとしたら相当な技倆である。拍手! |
いずれも唐代、天台山の僧で、寒山は文殊の化身、拾得は普賢の化身と称せられる。この二僧を描いたのが寒山拾得図。寒山は経典を披き、拾得は箒を持つ。つまり箒を持つ拾得がいないので、木の葉は積もるに任せるしかないというのである。高度な俳句の遊びである。感嘆するばかりだ。 |
根岸、子規庵の嘱目であろう。その庭には丁度糸瓜の花が咲いているのだが、花は太陽の方を向いているので、子規の位置からは花の裏しか見えないという。皆が見ているのだが、実は見逃していた一景で、作者の眼力の鋭さに唸るばかりである。二句目は、今の畳は子規の時代のものとは当然違うのだが、机のある一畳が擦り切れているように見えた、という。もちろん、見学者が絶えず坐ってみるのでそうなったのかも知れないが、むしろ作者の心眼が子規の座り癖を見た、と読み取るべきであろう。 |
落柿舎の名の謂れは、一本ごと売却を契約した柿の実が一夜の嵐で全部落ちて引き渡しができなかったことに由来する。時代を経た今、木守柿がいつまで経っても落ちずにある、という。故事を逆手に取ったユーモアである。 |
私にもその経験がある。あらゆる果物の中で一番皮が薄いのが無花果なのであろう。皮が剝けないので直接口にして皮の部分を食べ残そうとするのだが、それさえ難しいというのだ。俳味を交えて無花果の本意を捉えている。 |
石叩きは鶺鴒のこと。絶えず尾を上下に振っているのでその名がある。その動きが「地鎮めの神事」のように見えるという、見立てのうまさである。背黒鶺鴒であればその色調も何やら神官の姿のようにも見えてくるのである。 |
その他印象深かった句を次に
根岸子規庵を訪ね、子規の部屋に入る。窓から糸瓜棚が見える。見学者はたいがい立って見るか、座って見るかだが、作者は思い切って寝転んでみる。子規が見た位置から糸瓜を見上げるのである。そのような興味の持ち方が俳句力を鍛えるのである。少しでも子規の気持ちになってみようとする。だからこそ、このような句が生まれたのである。同時出句の〈なべてみな秋思文士の顔写真〉は、なるほど明治、大正時代の写真などはそんな感じだなと思わせる力がある。〈句読点打つ頃合ひにきりぎりす〉も「句読点」へ行き着いた発想が新鮮であった。 |
秋蝶といえば、夏と同じ蝶でありながら、どことなく哀れを感じさせるものである。この句の通りどことなく飛ぶ位置が低いのである。地を這うような飛び方のものもいる。うっかりしたら踏んでしまうのではないか、というこの句、その実感を共有できるのである。同時出句の〈童謡のなかに思ひ出烏瓜〉はまさにその通り!ふと口をついて出た童謡に触発されて少年時代を思い出すことがある。「烏瓜」の斡旋が効く。枯色の野に残った一点の朱である。 |
面白い句である。転がって厨から逃れた栗は、栗飯になることを逸れたのである。このような作り方をした句は今まで目にしていない。独自の発想を称えたい。私の子供の頃の信州は丹波栗などはなく、小粒の山栗であった。嵐のあった翌朝拾いに行ったものだ。小さな栗だけに剝くのは大変で、手を逸れた栗はあちこちに転がったものである。同時出句の〈夕暮の風を逆立て鵙猛る〉〈童謡のやうな村あり赤とんぼ〉も、写生と抒情のほどよい融合がある。 |
鷺草はいかにもその飛翔の形に似て珍重されるものだ。この句はその花が咲き終った頃を詠み止めたのであろう。いつの間にか花を支えていた茎だけが残っている。また風に吹かれた花が鉢の外にも散っているのであろう。盛りの時期ではなく、咲き終ったこの花の様子を捉えた独自の眼力を褒めたい。 |
確かに、竹林であるから幹と幹の間を風が擦り抜けてくるのである。これを「縦に抜け来る」と詠んだのは手柄である。櫛の歯を抜けるような見立てである。折しも「竹の春」であるから葉色も一際瑞々しいのである。同時出句の〈新蕎麦のそば湯に残る青さかな〉も秀逸。 |
「そこそこの」の措辞が何とも味わい深い。過疎の村であるのかもしれない。村人の精一杯の寄附なのだが、そこそこの額なのである。この表現で村の風景や村の財政状況まで読者の目にありありと浮かぶのである。同時出句の〈ひらきたるままや夜長の三面鏡〉もいい感覚を発揮した秀逸であった。 |
同時出句に〈暗がりに父の背追ふ茸狩〉〈茸狩森の香りを連れ帰る〉があった。茸の有り処は親兄弟でも秘密にするというが、後継者には伝授していくのであろう。「祖母の目利きを恃(たの)む」、「父の背追ふ」――いずれも少しずつ茸の宝庫を教えていく様子がよく描かれているように思う。最後は全員が森の匂いを持ち帰るのである。 |
椋鳥の生態をよく捉えたな、と感心した句である。実に貪欲な集団で、江戸時代、冬が近づくと「そろそろ椋鳥が来る頃だ」と言い合ったという。椋鳥も来るが、椋鳥のように信濃の出稼人が江戸の町に入ったのである。信濃者は働くけれど大飯ぐらいで、そのように呼ばれたのである。そんなことまで読後に思い出す句であった。同時出句の〈流鏑馬の駆け馬秋気蹴散らして〉も「蹴散らして」が独自の把握で、力が籠っていた。 |
伊那男俳句 自句自解(13) 孕み鹿ひたすらに夜を眠りをり
奈良の夜の嘱目である。一人で吟行したあと、いきつけの居酒屋「蔵」で名物のもつ焼きなどで酒を楽しみ、夜の奈良を歩く。町中とは言え、元興寺界隈などは身体が冷えるほどに森閑としている。春日大社の神域、飛火野や東大寺の境内などは、その暗さや静けさは時として恐怖を覚えるほどである。吟行はできればその土地の夜もみるべきだと私は思っている。酒を傾けながら地元の方々と挨拶をしたり、訛を聞く。夜の町を歩いてその空気に肌で触れてみる。昼間のその土地を表面だとすると、裏面である夜の呼気にも触れてみて一枚の絵が完成するのである。夜の奈良公園では闇の中に気配して、目を凝らすと、鹿が寝そべっていたりする。近づいても動かない鹿もいる。仔を宿した鹿は毛並も悪く汚れて見える。胎の仔に栄養を取られているからなのであろう。こんこんと眠っているように見える鹿もいる。その憐れさは一入である。「ひたすらに」にそのことを籠めたつもりである。 囀の十重に二十重に比叡山
比叡山は京の東北の鬼門に位置し、延暦寺はその鬼門を守る役割を持つ。そのような位置付けであるため朝廷への発言力も強く、平安時代、白河院が「賀茂の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬものはない」と嘆いたが、その山法師とは比叡山の僧兵である。当時から僧兵が力を頼りに京の町を蹂躙する事件が多々発生している。業を煮やした織田信長が山を包囲し、皆殺しの焼討をしたことは有名である。その折法燈は消えたが、山形の山寺に分けられていた燈を戻して、今も千年の法燈が根本中堂に点っているのである。私は何度もこの山を訪ねたが、この句は春、京都洛北の雲母(きらら)坂から歩いて登った折のものである。囀のまっただ中の山道であった。織田信長軍はこの山に通じる全ての道を閉じ、十重二十重の軍勢で山を攻めた。清廉潔白の最澄が始祖のこの山の歴史は無惨であった。今は囀が取り巻くばかり。歴史と現在を「十重二十重」と重ねてみたのだが果して成功したかどうか・・・・・・。 |
10月 10月28日(金) 発行所「門」同人会へ貸し出し。店「ランブル」主宰上田日差子さん、月野木さん母娘来店。明日、鍛練句会で朝早いので22時閉店とする。 10月29日(土) 10時過ぎ、御岳山ケーブルカー御岳山駅集合。「御岳山鍛練句会」31名参加。「御岳山荘」に投宿。十句出し句会。終わって散策して、いつもの土産店で蒟蒻などで浅酌。18時夕食。心の籠った精進料理。うたた寝を叩き起こされて20時、十句出しの句会。23時頃まで。 10月30日(日) 6時発、御嶽神社参拝。あと御岳山荘の主人、元宮司の金井氏に宝物館の案内をして戴く。9時過ぎから十句出し句会。成績発表など。全部終了したのが12時。蕎麦の昼食。御嶽駅前の中華店にて20名程で酒盛り。澤乃井をがんがん飲む。更に一駅歩いて「澤乃井園清流ガーデン」に8人。17時閉店まで! 10月31日(月) 「梛」誌記念会あとの本井英、山田真砂年、遠藤若狭男さんなど。「梛」の会は私も出席通知出したものの、やはり店のやりくりつかず、欠席に変えたもの。 11月 11月4日(金) 「大倉句会 五周年感謝の夕べ」。35人程参集。気仙沼の鮑酒蒸しニンニク風味炒め、鮪、蛸、鮑の刺身、牡蠣酢、蒸焼。海鞘、「仙台太助」の牛舌。京都の鯖寿司、米沢の焼豚……などなどの大宴会。 11月5日(土) 10時、運営委員会。昼、「いもや」の海老天。13時、「銀漢本部句会」。私の都合で一週間前にしたので出席者やや少なし。47人。鎌倉の中野、堀さん初参加。仙台の渚さんも参加。あと、杉阪、武田氏と編集室に戻り、「銀漢賞」選考委員会。眞理子さん参加。あと「てけてけ」に合流して親睦会。 11月6日(日) 12時より中野サンプラザにて「第29回 東京駒ヶ根会」。初参加。杉本駒ヶ根市長や山浦商工会議所会頭など上京。計43名。会長は骨董界の重鎮熊沢正幸氏。駒ヶ根の近況などを聞き、懐かしい方々とも会い、感激する。昼の酒に酔う。成城駅前で散髪。その間ずっとうとうと。桃子誕生日で一家はお台場のホテル。 11月7日(月) 倉田有希さん幹事の「写真とコトノハ展」スタート。12名の方で前夜祭。入れ替わりに「かさゝぎ俳句勉強会」あとの14人。 11月8日(火) インフルエンザの予防注射。降圧剤。14時、鳥居真里子さんの句会に発行所貸出しを失念し40分遅れ。更に17時からの山田真砂年さんに貸出しもダブルブッキングという事態。店「火の会」6人。鳥居さんの「駿句会」あと5人。真砂年、土肥あき子、山崎祐子さん。 11月11日(金) 14時、発行所にて「銀漢賞」選考会。唐沢静男君、伊豆から参加。あと店で積もる話など。「閏句会」8人。 11月12日(土) 京都着11時半。そのまま日蓮宗妙覚寺~阿弥陀寺、信長の墓を訪ねる。13時半、蛤御門前「ザ・パレスサイドホテル」へ滑り込む。「雲の峰」年次総会の講師。40分程、信長と本能寺と鉄砲についての小講演。宴会までの1時間あまり、御所の散策。銀杏大樹、散り始めている。和気清麻呂の護王神社、有栖川宮邸、菅原神社などを巡る。17時半、住田真理子さんのヴァイオリンの夕べ。宴会。22時、お開きと健全。 11月13日(日) 6時過ぎ起床。健全。快晴。9時、バスにて嵯峨野へ。清涼寺の「夕霧祭」。渡月橋近くへ歩き、昼食。直指庵へ。戻って広沢池。16時、京都駅にて解散。町へ出ていつもの店。鰹とヨコワの刺身、グジの一塩、万願寺。駅で発車時間まで更に飲む。新幹線乗車と共に爆睡。23時、帰宅。 11月14日(月) 雑用多々。宮澤は入れ替わりに昨夜から京都と。夜、冷たい雨。新潟日報大日向さん。閑散。21時半、閉める。 11月15日(火) 雨。国会議員のT先生、久々。超閑散。20時半閉める。ここ2日程、所ジョージさんの世田谷ベースに落書きあったとてテレビ局が三社、取材に呼び鈴鳴らす。語ることはなし。 11月16日(水) しみじみ雑用多し。店、「雲呑む会」打ち上げ10人。「三水会」5人。鈴木忍さん久々。22時半、効率良く閉店。 11月17日(木) 17時、竹内洋平、美穂夫妻の吟行会あと5人。水内慶太さん。松田つとむさん。現俳協の句会あと4人で。「銀漢句会」あと20人。ボジョレヌーボー解禁日でもあり賑やか。 11月18日(金) 発行所「蔦句会」あと6人。あと「爽樹」の環さんの仕事仲間6人。伊那北高校先輩井ノ口さんと新橋のみえ子姐さん。 11月19日(土) 終日家。選句したり、寝たり、本を読んだりの休養日。夜、宮澤、孫達と久々食事。鮎の山椒煮、「点天」の餃子、牛舌焼など。 11月20日(日) 七時半、池袋発のレッドアロー号で秩父へ。「武蔵野探勝句会」の三峯山吟行へ参加。バスで片道一時間以上の奥秩父の紅葉を楽しむ。素晴らしい眺望。戻って町で句会。21人。秩父神社に参拝し、10人程で「高砂ホルモン」へ。あと、餃子とラーメンの梯子をして19時25分のレッドアロー号に飛び乗る。 11月21日(月) 「演劇人句会」、江森さんの傘寿のお祝い10人。 11月22日(火) 福島沖地震あり。ひまわり館「萩句会」選句へ。店、今泉礼奈、村上鞆彦さん。皆川文弘さん、敦子、北海道北見の音羽紅子さん上京したとて寄ってくれる。たまたま村上さんと早大俳句会仲間。 11月23日(水) 久重凛子さんの「早蕨句会」に招かれ、「寺家ふるさと村」吟行会。柿生駅集合23人。見事な谷戸を巡り、四季の家にて句会。あと鶴川駅に戻り、「銀蔵」にて親睦会。あと10人ほどでカラオケ。 11月24日(木) 何と雪! 54年振り記録更新と。積もっていく! 店、国会議員のT先生。「銀漢」誌を読みたいと寄って下さる。「雛句会」13人。そのあと「極句会」7人。 11月25日(金) 11時、四谷三丁目の正応寺にて「春耕」の重鎮、升本行洋様告別式。ご夫妻で「春耕」発展に尽力された方。店、「金星句会」あと8人。大阪の凌雲君出張で来ていて合流。 11月26日(土) 14時、日本橋、「纏句会」。あと、鰤大根、題の牡蠣の茶碗蒸、牡蠣ごはん、握り。あと御徒町。信州の従兄弟に数の子とするめを送る。「吉池」で乾物を買い店に納める。帰宅すると家族食事の最中。豚しゃぶ参加。 |