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2月号 2017年
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伊藤伊那男作品主宰の八句 はせを忌 伊藤伊那男
木枯の研ぎ出してゐる故郷の灯 地球儀に残るソ連や冬に入る べか船の町新海苔の幟立つ をちは甲斐こちは武州や柿すだれ 芭蕉忌の柿の梢を濡らす雨 はせを忌のあふみの空の降り癖に 牡蠣飯や運河二つを渡り来て 今月の目次銀漢俳句会/2月号 銀漢の俳句伊藤伊那男
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◎本能寺のこと──『そして京都』こぼれ話 北辰社銀漢叢書の一冊として、私のエッセー集『銀漢亭こぼれ噺──そして京都』が近々出版される予定である。盟友、朝妻力主宰の俳誌「雲の峰」に5年半連載していた「自分史」である。私の右肩下りの人生だけでは物足りないだろうと思い、京都中心の食べ物や、京都の歴史の裏話などのショートエッセイ50編ほどを加えることにした。文章で残すとなるといい加減な話はできない。特に歴史に関しては裏を取らなくてはならない。一昨年末、奈良すす逃げ吟行会のあと京都に2泊して京の町を歩き回った。 一番調べたかったのは本能寺のことである。今の本能寺は御池通り寺町にあるが、信長が討たれた頃は蛸薬師通り小川界隈であった。その周辺を渉猟していると近くの家から70代半ばの男性が出てきて説明してくれた。村田茂雄さんという方で、先立って『──おこしやす京都──町なかを歩く』という本を出版された、ということで一冊求めて別れた。その本の中に私のかねてからの疑問に答えてくれる記述があったのは幸せであった。その疑問とは、仏教徒を敵に回して戦い続けた信長が何故わざわざ本能寺という寺に泊っていたかということである。信長の京における宿は妙覚寺か本能寺で、いずれも日蓮宗である。その本で解ったことは、信長の岳父齋藤道三が幼少時、妙覚寺で得度を受け、法連坊の名で僧侶になったことである。その縁から道三の子供の1人、つまり濃姫(帰蝶とも)の兄弟が妙覚寺の日饒上人になっている。本能寺はその兄弟寺である。その本能寺の数代前の日典上人は種子島の出身で、早くから島で日蓮宗の布教を開始していたのであり、領主種子島氏も信徒であった。つまり鉄砲伝来の情報と技術は真っ先に信長に伝わるルートが確保されていたのであった。伝来から32年後の長篠の戦いでは織田勢は三千挺の鉄砲を駆使して武田勢を壊滅させた。信長の死後になるが関ヶ原合戦では両軍合わせて五万挺の鉄砲が投入されたといわれており、全世界の50パーセントの鉄砲が日本に存在したのである。その全てのきっかけが本能寺に始まるのであって、信長の宿泊は歴史の必然だったことになる。ちなみに、それ以前のことだが京における日蓮宗は比叡山の憎悪の的となり、二十一寺院ことごとくが焼打ちに会い、本能寺も堺に逃れている。その歴史を考えると信長の比叡山焼打ちの執拗さも理解できるのである。本能寺は現在地に移るまで堺時代を含めると5度の移転の歴史がある。ほとんどが焼打ちや戦禍である。本能寺の「能」に「ヒ(火)」が二つ入っていることを嫌い、寺ではその部分を「去」の字に変えているが、現在地に移転後も2度の火災に遭っている。 |
「えんぶり」は、青森県八戸地方で2月17日から20日にかけて行われる、豊年予祝行事である。雪中で囃子に合わせて擦り込み、草取り、大黒舞などが演じられる。同時作に〈えぶり衆来て雪の道かがやかす〉〈雪に舞ふえんぶり衣装艶めきぬ〉〈えんぶりの農夫口紅つけて来る〉がある。「雪の道かがやかす」もこの祭事を際立たせる表現だが、掲出句の「雪の匂ひをひきずれり」はその行列の行跡を詩的に捉えて見事である。 (平成2年作『随處』所収) |
一踊りしたあとの門付けの獅子に子供を抱いた母親が近づいて子の頭を噛んでもらう。獅子の方もサービスで子供を追いかけて頭を噛み泣かせてしまったりする。そんな正月の一風景である。「噛みぐせの出る」と俳諧味のある仕立てにしたところが技である。昭和の終り頃であったか、毎年一月三日に盤水先生を囲んで秩父の獅子舞を見たことを思い出す。 |
全国の神々が出雲国に集合するので、この地方では「神無月」ではなく「神有月」となる。一畑電車は松江から宍道湖の縁を回って出雲大社に向う単線電車、固有名詞である。それほど混む電車ではないけれど、神有月には混み合うという。それは神々が乗り込んでいるせいかもしれない。そのような想像力の働きのある楽しい句である。 |
京都が好きで度々行くが、思えば祇園などというのは面白い名称である。インドの仏教にまつわる地名がそのまま付いて皆が認知しているのである。小さな寺がいくつかあるし、建長寺などでも町の人は勝手に通り抜けている。そんな庶民の暮しと密着した寺の様子が出ている句である。茶垣を配したのもいい。歩いてみたくなる。 |
やや疲れの出てきた簾である。一夏の酷烈な日差しを遮ってきた簾なので無理もないことだ。解れの出た秋簾を詠んだ句は多いが、この句の「両肩の落ちてきたるや」は今迄見たことのない克明さがあるように思う。擬人化が効いて夏の疲れが出た人間にも通じるものを感じるのである。 |
私は行ったことが無いけれど季節になるとパリの露店に生牡蠣が並ぶという。レモン汁をかけただけで啜り込む。何かで読んだ記憶だが、作家のバルザックは前菜(アプレチーフ)だけで生牡蠣を十二ダース食べたという。その宴のあとの露店の隅に山積みにされたワインの空瓶と牡蠣の殻……いいな! |
人はいろいろな夢を持って生きている。しかし果される夢は少なく、消えてゆく夢の方が多い。ふと帰り花を見て、果されなかった夢の数々を思い出したのであろう。あの夢もこの夢も消えて……しかしそれもまたよし、夢を見ただけでも幸せだったのではないか。この頃私もそんな風に思う。 |
今の群馬県。耕せば空っ風に赤土が舞い上がるのである。 |
いかにも朝市である。皿秤の黄葉は発見である。 |
初めて貰った台詞が羊の役。その一声が可愛い。 |
花模様の切り張り障子。「花をあちこち」が上手い表現。 |
要は即席ラーメンに湯を注いだだけのおかしさ。 |
正月に貼った札も四隅から綻び始めたようだ。 |
戻らない『アンネの日記』。冬薔薇に少しの痛みが……。 |
田から引き上げた案山子が田の神に昇格する。 |
灯火の無い納屋の方が明るく見える十三夜。実感である。 |
相当撓んだがまだまだ。いい所に目が行った! |
東京国分寺に残るお鷹道。はけの水をふんだんに。 |
宮居跡はどこも淋しいものだ。一面の草紅葉が悲しい。 |
あの名曲がテーマか。人の悩みとの取合せに味わい。 |
暖鳥の季語でよく作った!その温かさに目を閉じる鷹。 |
伊藤伊那男
私が東京に出てきた昭和四十三年頃はきっと「おばけ煙突」はあったのだと思う。だが残念ながら見てはいない。『三丁目の夕日』などの漫画で知ったのだと思う。三本の煙突が見る方角により二本に見えたり、一本に見えたりするのである。「鰯雲」の取り合わせがいい。高度成長期の東京の空は汚れていたけれど、秋には少しくらい澄んだのかもしれない。 |
動きの鈍くなった冬の蜂が日溜りの中、歩むこともなく前脚で顔を撫でるばかりであるという。対象物だけを詠み切る一物仕立ての句でその生態を摑んでいる。このような句を見ると、冬蜂を詠んでいながら、人間を始めとする万物に共有する寓意も感じさせるのである。 |
この句の切れ味がいいのは、動詞を一つも使わず、「物」だけを提示しているからだろう。読者はおのずから諏訪大社や出雲大社などのあの分厚い注連縄に連想が及ぶのである。「重さは五屯」の言い切りがよいのだ。具体的にどのような量なのか解らないが、ともかく圧倒的な重量なのだと思うだけでいいのだ。説得力のある句なのである。 |
「忘れ音」──日頃目にしない言葉である。よくぞ句に取り込んだなと思う。芭蕉に〈きりぎりす忘れ音に啼く火燵かな〉があり、季節を過ぎた虫の鳴き声である。その残る虫の音に「腹の虫」をぶつけたのは技倆である。そして「一茶忌」で決定的な効果である。蕪村でも芭蕉でも駄目、全てが一茶の生涯を象徴しているようである。 |
一読楽しい句である。「色鳥」とは秋の小鳥の美称。総じて色彩の美しい鳥が多いことからこの名があるのだが、中には首を傾げるような小鳥もいるというのである。果してこれを色鳥の範疇と呼んでもいいのか、と呟く作者。 |
奈良の地図などを見ると各地に |
良い年の重ね方をしてきた方の句である。ここで言う「西日」とは一日の後半ということと、人生の後半ということを織り混ぜているのであろう。そして「明日は明日」と声に出したのであろう。私もいい年になってきたので、このような句が心に染みるようになってきた。こんな風に言い切れるのは凄いと思う。「ケ・セラ・セラ」(なるようになる)である。 |
川中島を持ち込んできたところなど、縦横無尽な発想に舌を巻くしかない。信玄と謙信の攻めぎ合いと「冬将軍」を合わせて臨場感を強めたのである。作者は信州伊那谷の育ちなので、この句であれば北からやってきた上杉謙信が優勢ということになろうか……。 |
「九度山」の前書きがある。この前書きが重要である。関ヶ原の合戦のあとの真田父子が蟄居した九度山が今、その真田軍の赤備えのように満目の錦である、というのである。すんなりと歴史の中に滑り込んだ佳品である。 |
外套を詠んで珍しい句である。青空市に出た外套はどうやらチベット産。ブランド物ではないが、実用性の高いものなのであろう。何だか青空市がいきなりチベットのどこかに移動したかのような錯覚を覚える句となった。 |
その他印象深かった句を次に
丁寧に対象物を観察した句である。自然薯のありどころは蔓を辿るしかない。その意外に細い枯蔓を目で追っていくのである。その様子が克明で、写生句の良さが出ている。主観を入れず自然が教えてくれたことを素直に言語に転換してみる――これが写生句である。この基礎を固めたら次のステップに入れるのである。さて自然薯掘りはそれからが大変。縦横に張った根を断ち切りながら、自然薯を傷つけないように掘り下げていく――ああ作句も同じなのだと思う。 |
「冬の蝶」とその影を詠んだ二句である。二句共、冬の蝶を詠んでいるけれど、作者の心象も色濃く投影しているように思われる句である。冬の蝶だけに飛ぶ位置が低く、また止まることも多いのであろう。二句目はその自分の影に囚われているのである。写生句というよりも自己の心の投影のある句、ということになろうか。 |
黒松を持ってきたところがいい。桃山時代の襖絵を見るような句の仕立てである。どっしりと根を張って常に絵の中心にある黒松。「貫禄」という、普通なら俳句に使えば失敗しそうな言葉が逆に生きているようである。「冬に入る」の納め方が決め手。 |
仕留めた熊の解体に神主が呼ばれたという。大型の動物であるし魂鎮めの祈祷を頼んだということであろうか。腑分け前などという変わった角度から詠んだ熊である。余談ながら今もあちこちに熊の出没が報道されるが、子供の頃、私の家に勤めていた看護婦さんが帰路、熊の襲撃を受けたことがあった。時々は仕留められた熊が肉屋に吊り下げられていたのを見たものだ。同時出句の〈障子貼り替へていよいよ古畳〉も面白いところを詠み止めている。 |
何とも懐かしい風景である。味噌なども各家で作った時代、切干大根などは当り前のことであった。また子供の多い時代でもあった。「筵にしみる子守唄」とは何とも味わいの深い表現である。 |
青菜は少しの霜に当ったくらいのときが甘味が増してうまくなるようだ。だがあまり当っては困るので適度の藁で調整をする。その藁が風に吹かれて乾いた音を立てているのである。目立たない風景を淡々と詠み切った姿勢がいい。 |
漢字が多い句だが無理はなく、歯切れがいい。何の猟かは解らぬが、猟解禁はおおむね十一月くらいから。早速銃声が返ってきたというのである。「響動(とよ)む」がいい。 |
合宿をした奥多摩御嶽山の嘱目であろうか。私達が泊るのは最も古い宿。神の存在を感じるような宿である。「八方露」に実感がある。庭の木々、屋根のある門構えなど全て露の中 |
盛岡の宮澤賢治の縁の地に確かチョークで書かれたこの文字があった。訪ねて来た人に、下の畑に居るよ、と知らせているのである。何だか賢治に会えるような楽しい句の仕立てである。 |
入れたてのコーヒーから立つ湯気は見馴れたものだが、立冬の今朝のコーヒーの湯気は少し違う。いつもより湯気が強く、くっきりと輪郭を作っているように見えるという。科学的な根拠の有無ではなく、そのような季節の移ろい、冬の到来を感得した感覚がいいのだ。 |
伊那男俳句 自句自解(14) 天牛の髭の先まで斑を持てり
私の学んだ「春耕」は「風」の僚誌であった。その頃の「風」は写生俳句を標榜しており、丁度日本人の生活が均一化していく中、失われていく各地の風土を詠んだ「風土性俳句」と相俟って、角川賞受賞者を何人も輩出していた。私は写生は自分の思いを伝達する手段、技術だと思っているが、写生をスローガンにすると、末端に伝わっていくに従って教条主義化していく。仕舞には「写生」が目的となり、「いい抒情句だ」などという評価は句会でも言えなくなっていく。そんな時代であった。もちろん私のような本来主観の強い者には、写生で鍛えられたことは、よい足枷となって、今から思うと有難いことであった。この句はその時代の成果の一つである。「風」連衆に混って白馬岳の登山をしたその山麓での作。一つの対象物を見詰めて、そのものを詠むと必然的に一物仕立ての句となる。胴体の延長にある髭(触角)にも先端まで、胴体と同じ縞模様が入っていたのであった。 兜虫ひと足づつを剝し捕る
子供の頃、家の近くの雑木林へ兜虫を捕りに行った時の回想句である。櫟などの木の榴に樹液が噴き出している所があり、それを舐めに集まってくるのである。兜虫は棘の沢山付いた六脚で樹皮に張り付いているので、いきなり引き剝がすには抵抗が大きいし、無理をすると脚が捥げてしまうこともある。子供ながらの知恵で身体をおさえた上で一脚ずつを強弱をつけて持ち上げていくのである。自然観照ができていて、独自の発見があるとして、このような句が当時は評価されたのである。人間の主観など大自然の摂理に較べたら矮小で、取るに足らないことなのだ。無理に浅知恵など句に入れるな、自然に教えてもらえ、というのが「風」の根本思想であった。澤木欣一に〈秋晴の空気を写生せよと言ふ〉という句がある。目に見えない空気をも写生しろ、という禅問答のような句なのだが、私はこの句が好きである。写生の訓練ができた上での主観の注入でよいのだと今も思っている |
11月 11月27日(日) 「春耕」前川みどりさん逝去の報。「銀漢亭」開業時にお世話になった方。終日家。「銀漢」1月号の選句と原稿書き。夜、家族と食事。秩父から買ってきた豚肉の味噌漬、孫たちから頼まれたガーリックライス。ジャコ天、かまぼこ……などなど。 11月28日(月) 堀切克洋君、「第三回 俳人協会新鋭評論賞・大賞」受賞。「銀漢」にとっても快挙! 故土井弘道氏の神戸大学の同期3名様来店。土井さんの遺言とて。「銀漢」に入会の話で相談あり。 11月29日(火) 店、閑散。21時半で閉める。 11月30日(水) 1月号の彗星集、自句自解原稿を各々送付。やれやれ。広渡敬雄さん会社仲間と6人。23時、帰宅し、勉強している孫の横で少し飲む。 12月 12月1日(木) 「十六夜句会」13人。「春耕」同人、島田ヤスさん逝去と。1週間ほどの間に3名逝去とは! 12月2日(金) 名古屋句会の萩原さん、出版記念会用の短冊ほか書く。店の11月月次表作成など。伊那市東京事務所長・下平明彦さん来店。駒ヶ根に帰ると寄る「焼鳥ママ」の甥。共通の知人多く、話盛り上がる。 12月3日(土) 13時半より「Oh! つごもり句会」。超結社で28人参加。5句持ち寄り句会。あと席題で3句、2句と。19時頃、お開き。幹事の朽木直さん、名古屋から来られた山口輝久さんらと「大金星」で打ち上げ。さらに、甲士三郎さんら10人が先に行っているカラオケへ合流。23時過ぎまで大騒ぎ。 12月4日(日) 13時半、中野サンプラザ。「春耕同人句会」。棚山主宰欠席。あと忘年会。このところ、升本行洋、前川みどり、島田ヤス同人相次いで逝去にて献杯。あと十人ほどでもう一軒。 12月5日(月) 雑用あまた。昼寝。店、「かさゝぎ俳句勉強会」あとの12人。国会議員のT先生。金井さん、敦子さんと日韓古代史について盛り上がり、24時近くにお開き。 12月6日(火) 「月の匣」主宰・水内慶太さん誕生祝い。本庄康代、大西酔馬さん幹事で超結社で祝う。31人集まる。あと10数名で「ふくの鳥」。発行所では北辰社が私のエッセイ出版の最終打ち合わせ。 12月7日(水) 「きさらぎ句会」あと9人。「宙句会」あと14人。 12月8日(木) 父の命日。早めに店に入り、仕込み。「慶應俳句会 丘の会」の年次総会で30分間の講演依頼を受けており、松代展枝さんに店を頼む。三田キャンパス、ファカルティクラブOB約60人。「井上井月の生涯について」講演。パーティーのあと、21時、店に戻る。「極句会」6人。 12月9日(金) 小野寺清人さんの気仙沼高校同期会、20人。牡蠣蒸焼、牡蠣フライ。まぐろ他刺し身、馬刀貝、イカ焼、海鞘などなど。皆川文弘さん。 12月10日(土) 10時、運営委員会。午後、万世橋区民会館にて「銀漢本部句会」52人。あと「甘太郎」で忘年会。 12月11日(日) 11時過、名古屋着。新幹線でずっと寝て。12時より、萩原空木君の『熊野古道を行く』の出版記念会。私と武田編集長がゲスト。テレビ塔横の「囲み屋」。15人。「名古屋句会」の方々の温かな会。終わった後、急に元気がなくなり、名古屋駅で一時間休み、新幹線でも寝たまま。やっとの思いで帰宅して朝までこんこんと眠る。 12月12日(月) どうやら風邪であったか。蓄積疲労か。昼過ぎまでぐずぐず過ごす。店、藤森さんの「閏句会」8人。池田のりをさん、三笠書房の押鐘会長。 12月13日(火) 「火の会」6人。句会終わったあと、メンバーの佐怒賀直美、大塚凱君来る。伊那から、伊那北高校先輩の平澤さんという方が来店。井月本にサインを求められる。 12月14日(水) 発行所「梶の葉句会」、選句に。坂口晴子さん、長崎から。店、予約なし。久々、井蛙さん。水内さん一派。 12月15日(木) 「銀漢句会」あと19人。 12月16日(金) 来春出版予定の『銀漢亭こぼれ噺』につき、北辰社より帯文が欲しいとの要請あり。酒場の主の本にて、吉田類さんはどうかと思い、昨日、連絡取ると、マネージャーより「伊那男さんならと二つ返事でOKです」との返事。何とも嬉しいこと。酒場をやっていてよかった! と思う。三か月に一度の「白熱句会」。水内慶太、井上弘美、佐怒賀正美、檜山哲彦さん。「蔦句会」あと6人。「金星句会」あと6人など。 12月17日(土) 10時半、JR石川町駅集合。恒例の「横浜忘年句会」。36人集合。山手洋館巡り。快晴。長崎の坂口晴子、大阪の中島凌雲君参加。大佛次郎記念館にて4句出し。中華街にて句会と忘年会。あと10数名で馬さんの店で二次会。 12月18日(日) 久々、整体。午後、杏さん一家来て家族と忘年会。12人。蟹鍋。自作からすみの披露。「真田丸」最終回を見る。 12月19日(月) 店、法政大学高栁先生5人。「天為」発行所編集部5人。「演劇人句会」終わって10人。伊那北同期の大住君、2年ぶり来店。心臓手術数回経て生還と! 嬉しいこと。丁度、同期の大野田君いたので3人で祝盃。 12月20日(火) 莉子、スキー合宿へ。日曜日に来ていた孫の瑛斗君インフルエンザ。こちらの孫に感染しているかどうか……。11時半、神保町のイタリアンレストランにて「萩句会」の忘年会ランチに招かれる。店、「雛句会」12人。対馬康子さんなど。 12月21日(水) 休暇まであと2日。「三水会」5人。クリスマス前夜祭とて数人。小学校から高校までの同期の宮沢常泰君の夫人グループ4人。国会議員のT先生、酔っぱライターの江口まゆみさんと。パリ在住のマニベ美佐緒さん夫君のフィリップさんと。私の金魚の句に感銘して一度訪ねてみたかったと来てくださる。堀切君と面識ありと。「天為俳句会」の方々、二次会のあと6人。 |