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7月号 2021年
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伊藤伊那男作品主宰の8句 今月の目次銀漢俳句会/2021/7月号 銀漢の俳句伊藤伊那男
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銀漢の俳句 ◎河合曾良の謎⑴ 4月に、かねてから切望していた伊勢長島を訪ねた。桑名に降りて七里の渡しあたりから揖斐川と長良川を跨ぐ国道一号線の伊勢大橋をタクシーで渡った。二川が並行して流れる河口なので実に長い橋である。渡り切った長島町は今は桑名市に編入されている。その先の名古屋との間には木曾川が流れており、文字通り木曾三川に挟まれた細長い中洲が長島である。古来三川の氾濫に悩まされた土地で、江戸時代と明治時代以降も治水を繰り返してきた歴史がある。昭和34年の伊勢湾台風でも高波に襲われた。標識を見ると町の中心部でも私の身長を越える高さまで水が満ちたことが解る。 河合曾良が暮らしていた頃には水路が縦横に走り、六つか七つかの輪中に分かれていたようで、纏めて伊勢長島藩二万石が形成されていた。藩主松平家の勅願寺として創建された真言宗智山派長松山大智院が長良川の堤防に張り付くように残っている。曾良は信州諏訪で育ったが、縁者である住職良成を頼って、十代後半にこの寺に入ったとされる。その後伊勢長島藩に出仕し、後に江戸に出て神道家吉川惟足の膝下で学ぶ。深川で芭蕉の弟子となり「おくのほそ道」に随行することになる。 折角訪ねたので住職にお目に掛かりたいと思ったが留守の様子にて、堤防の上を散策して曾良の時代を偲んだ。幸いなことに住職が戻ってこられた。話し掛けると「本堂で話しましょう」と上げて下さり、茶の摂待を受けた。寺は曾良の時代は今の堤防の下、長良川の河原の中だったのが、水害の度に横に移動して今の位置になったのだという。『おくのほそ道』の中山の段に「曾良は腹を病て伊勢国長島と云所にゆかりあれば、先立ちて行に」とある。『おくのほそ道』は大垣で終わるが、その後迎えに来た曾良と舟で長島に下った。『曾良旅日記』によると九月六、七、八日大智院に宿泊している。 大智院には芭蕉の染筆〈うき我をさびしがらせよ秋の寺〉の懐紙が残っている。住職が複製を掛けて見せてくれた。今の色紙より一回り小さい。「複製は市が作ってくれたが費用はレクサス一台よりも掛かったようです」と。この句は後々『嵯峨日記』で〈うき我をさびしがらせよ閑古鳥〉と推敲されて、そちらが我々の知るところである。前書に「伊勢の国長島大智院に信宿ス(●ス→小さく)」とある。信宿とは二晩泊まることをいうのだが、染筆の翌日も雨となり『曾良旅日記』には「八日雨降る故、発足延引……」とあり、三泊する。「九日快晴。出船。辰の時桑名に上る……」と、伊勢神宮の遷宮を拝する旅に変わるのである。 |
海猫の繁殖地として知られる八戸市の外れ、蕪島の嘱目。私も行ったが驚くほどの数の海猫がいる。直径七十センチ位が縄張りで、うっかりそこを出た雛鳥は違う番から容赦なく攻撃を受ける。まさに「修羅」であり「生臭き」光景である。神社の柵に屯する海猫は金縁の目が獰猛で目を合わせると恐怖を覚えた。先般近くまで行ったが、焼失後再建された神社は異様に大きく、島全部を敷地にした天守閣のようであり、訪ねるのを躊躇うほどだった。 (平成十八年作『凌雲』所収) |
彗星集 選評 伊藤伊那男伊藤伊那男・選糶の語尾跳ねあがりたる桜鯛 松代 展枝
亀鳴くや朝夕の御食空海に 新谷 房子
母の居る気がして開ける春障子 西田 鏡子
墨東に銭湯いくつ春夕焼 荻野ゆ佑子
鷹鳩と化し段葛にも群るる 中島 凌雲
花時ぞ「考へる人」顔上げよ 白濱 武子
欄干に千年の跡お松明 清水佳壽美
春祭馬の嘶き加はれり 小野寺清人
枡売の浅蜊こぼるるまでは積む 堀内 清瀬
長閑にて鳩と二三歩あゆみたり 岡城ひとみ
砂文字を消して波引く啄木忌 伊藤 庄平
駅裏のだるまや旅館猫の恋 長谷川明子
花の雲西行庵はその奥と 梶山かおり
回覧板沈丁の香も届けられ 三溝 恵子
引く波にあらがふでなし桜貝 岡城ひとみ
古書街を往きつ戻りつ春夕焼 山口 輝久
目で追うて胸ぬちに消ゆ石鹼玉 我部 敬子
広小路までをだらだら夕桜 小泉 良子
笛方は飛騨の匠の春祭 橋野 幸彦
銀河集作品抄伊藤伊那男・選 身ぐるみを剝ぐか羊毛剪る鋏 東京 飯田眞理子
釣り上げし魚の涙目涅槃の日 静岡 唐沢 静男 鶯餅名のあつぱれや鳴かせたし 群馬 柴山つぐ子 余呉湖いま天女恋しと亀鳴けり 東京 杉阪 大和 鯛網の浜に朝鮮使節の碑 東京 武田 花果 オリーブの大剪定は予祝とも 東京 武田 禪次 龍ひそむつたへの池に蝌蚪游ぐ 埼玉 多田 美記 無精髭そのままにして三鬼の忌 東京 谷岡 健彦 涅槃図のたれより若し釈迦牟尼は 神奈川 谷口いづみ 楤の芽の荒くれぶりも信濃なる 長野 萩原 空木 解きたる帯につまづく花疲 パリ 堀切 克洋 春の野に翼を得たる幼かな 東京 松川 洋酔 からだごと鋤簾を揺らし蜆採る 東京 三代川次郎 綺羅星集作品抄伊藤伊那男・選
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芭蕉の『おくのほそ道』の出立の項に〈行春や鳥啼魚の目に泪〉がある。その本歌取りの句。涙を流すことのない魚が涅槃の日には涙目であった、というのが巧みである。年季が入っていないとできない句で、古典に材を取った知的な構成力に感嘆した。 |
伊那谷の父の実家は大昔の天竜川が削った段丘の下にあった。段丘の上は林や畑になっていたが、子供の頃いくつも鏃(矢尻)を拾った記憶がある。縄文人が獣を獲ったり天竜川の魚を獲ったりしていたのである。楤の芽などもきっと食べていたのであろう。この取合せが面白い。 |
蕗の皮を引く、という行為と、ふる里が近付くという措辞の絡み方がうまいところだ。まるで糸をたぐるように思いがふるさとに繫がっていく。ふるさとと繫がる手立てが蕗の皮――その発想が見事である。田舎では畑の隅に勝手に生えている蕗、母や祖母があくで手を染めながら剝いていた蕗、その回想が目の前に近付いてくるのである。 |
冒頭で言っておくと「背山」という言葉を「裏山」と間違って使っている俳句が多い。『万葉集』に「妹背」という言葉があり、愛し合う男女のことを言う。「背山」(兄山)は相対する二つの山を男女に見たてた場合の男性、夫の山である。「妹山」は女性、妻の山を指す。さてこの句に戻ると筑波山は二つの峰を持ち、西が男体(背山)東が女体(妹山)ということになる。句は背山が霞んでいたという。歴史と文学に磨かれた山を格調高く描いた。 |
「鶴岡八幡宮」の前書がある。八幡宮の正面に掲げられた扁額の「八」の字は鳩が二羽向かい合った絵文字である。ここから句を導き出したのはなかなかの技倆。鎌倉の鷹が鳩と化して鶴岡八幡宮の扁額の八の字の中に二羽入ろうとしている、というのである。 |
石川啄木の忌日は四月十三日。二十六歳で貧困の内に死んだ。金銭面でも女性関係でも常軌を逸していたが珠玉の歌を残している。「詩の疵深き」に啄木の人物像が籠められているようだ。同時出句の〈ぶらんこの乗り降りの場にある凹み〉は細かな所に目が行き届いた句であった。 |
秘仏といっても七年に一度とか御開帳があるものだ。これに対し善光寺や浅草寺のように一切扉を開かないのが「絶対秘仏」なのであろう。「秘密」と「絶対秘密」のどこが違うのか、というのと同じようなおかしさがある。「亀鳴く」の季語の斡旋が絶妙である。 |
「笑ふ」から「笑窪」へと連想が及んだ句である。その場所を阿蘇山に持ってきたところが壮大である。陥没したカルデラの部分全部を笑窪に見立てたのであろう。壮大。 |
「禍」はわざわい、まが・ごと。「過」はあやま・ち。昨今の時世はまさにこのようであった。人の世はそうだけれど自然の動きは淡々と進んでゆく。「鳥雲に」はその象徴として配合された季語なのであろう。 |
啓蟄は二十四節気の一つで冬籠りの虫が這い出す頃。その頃妻も旅行の計画やら色々な外出に動き始めている。虫と人間を並列に置いた面白さである。「活動期」の言葉が発見で、火山活動という言葉まで思い出されて何とも楽しい句となった。 |
白子を干している処へ松の翳が差してきた。松の翳なのでさほど邪魔になるものではない。むしろ格が上がるようにも思われてくる。微妙な美を捉えて品格が高い。 |
その他印象深かった句を次に
花衣を脱ぐと纏わりついていた花弁が零れる。その一、二片の花弁に今日一日の花見のことを回想する。ここではリフレインで「帯」を強調したことが句の印象を深める効果を発揮しているようである。「帯解きて」の「て」は何々したらこうなった、という因果の「て」で、普通は成功しない。また一句に動詞を二つ使うのは一般的には句を煩雑にするものだ。だが、そのことを感じさせないところがこの句のよさである。 |
栄螺を実際に焼いてみるとわかるのだが、蓋を上にして焼いたときに煮汁がこぼれないように置こうとすると、これがなかなか難しいのである。棘の位置をよく見て火の上に据えなくてはならない。火勢や煮え具合によって揺らぐこともある。この句は厳然と動かずに煮られているという。まるで弁慶の立往生という感じで、健気で若干のおかしさと哀れさを含む仕上りである。 |
虻の細やかな羽根遣いが光を集める。まさに春の日が遍満である。その小さな羽音も光の中にある。虻の生態とその頃の季感をよく摑み取っているようだ。同時出句の〈夕暮に瞼を堅く亀鳴けり〉も「亀鳴く」という架空の季語に実際の亀の生態を合わせて、本当に鳴いているかのように思わせるところが勘所である。 |
兼題で出た「闘牛」の句である。実際に見たことのある作者もいるだろうが、見ていなくても兼題であるからには想像を巡らせて作らなくてはならない。そうした言葉の訓練が俳句の力を高めていくのである。実は私も実見したことは無い。テレビで見たことと、隠岐島を旅したとき、闘牛場の横を通ったことと島のパンフレットで見た程度なのである。右に挙げた句はいずれも臨場感がある。壺中句は重い頭突きの音が読み手の耳にも伝わってくる。番茶句は牛にも勝利の喜びがあるのであろうか、勝名乗りに勇み立って何人かの勢子を引きずる、という。典子句は逆に負け牛に島の風は重苦しく、牛が項垂れているようにも思われる。一滴句は闘牛も神々に捧げる神事、と違う角度から闘牛というものを観察している。各々佳句を残した。 |
鰤起しは冬の雷で、日本海沿岸の漁師はこの雷が鳴ると鰤が来る、豊漁だ、と気負い立ち出漁の準備に入るという。その意味で鰤漁に対する一種の号砲である。ところがこの句は既に漁に出た船が網を流したところで雷が鳴る。あたかも漁労長の指図の声のように用いたところが異色である。 |
浄土なら日向ぼこも許されそうな気がする。平等院鳳凰堂とか平泉の毛越寺の庭園跡などを見ると、中世の人々の浄土観が解る。あれが浄土であれば間違いなく日向ぼこができそうだ。もちろん現世の縁側での日向ぼこも、その一時は浄土にいるのである。 |
なるほど、藤の花なら重力という発想も納得できる。この句は中七の「美しかりし」がいい。普通はこういう直截的な形容詞の使用は俳句では避けるのだが、ごく稀に成功することがあり、この句はそういう句の一つだ。それは上五の「重力の」が効いているからで、重力によって美しくなる、という発想が非凡だからである。 |
冬期厩に閉じ込められていた牛馬も春の野に出るのは嬉しいことであろう。その様子を「鼻息の荒き」と具体的に描いて成功している。その逸った牛馬を「なだめ」ながら連れ出すという飼主の動きも加えて丁寧な仕上りである。 |
二宮金次郎といっても知らない子供の方が多そうだ。薪を背負って勉強しながら歩く――理解させるのは厄介である。我々の世代が理解できるギリギリのところかもしれない。一昔前の郷愁を誘う校庭の一景だ。 |
不思議な取合せの句だ。ぬれ煎餅という予定調和を崩した食物であるからこそ、この予定調和の無い取合せが自然に胸に入ったともいえよう。嚙んでも音のしない煎餅と、鳴かぬはずの亀が鳴く取合せの妙。 |
伊那男俳句 自句自解(66) 義士祭耳掻き買うて帰りけり
鳥居三太という俳人がいた。博報堂に勤めていてその社内句会のゲストとして二回招かれた。その句会で〈吉良邸を窺つてゐる年の暮〉というような句を出したら氏は随分嫌がった。聞くと三州吉良の出身で、その地の人は忠臣蔵は一切見ないという。確かに史実として見ると、吉良氏は気の毒である。多少の軋轢があったにしても殿中でいきなり斬りつけるのは尋常ではない。浅野内匠頭は癇癪持ちだったようである。大石以下赤穂浪士は吉良の隙を突いた押込強盗のようなものと言えなくもない。結局吉良上野介は殺された上領地は没収。上杉家から養子で入っていた跡継ぎの義周は当夜の行動未熟の廉で諏訪高島藩に預けられ、三年後失意の内に病没した。享年二十一歳。実に無念な結末である。この句はそのような私の心象も少し入っていたということになろうか。「耳掻き」は実際に義士祭の泉岳寺の出店で見たのであるが、取合せに無意識ながら若干の揶揄が入っているのかもしれない。 桃咲くや嫁す日も父は酒臭し
一口に言うと大学生時代以降、四十代の大腸癌の手術に絡んだ半年間以外は酒を欠かしたことが無い。娘の授業参観日に喉元まで酒が詰った状態で行くと、隣の妻が「とにかく教室から出ていって」と追い出されたことがある。長女の名前は桃子、次女は杏子と名付けた。私なりに知恵を絞ったつもりである。というのも桃も杏も花が賞でられ、果実が美味で、しかも種も薬になる。特に桃は『古事記』の中で亡き妻を訪ねた伊弉諾命が黄泉国から脱出するとき黄泉比良坂でその実を投げて危機を脱した霊力の強い果実である。郷里の信州と東京を往復する中央本線は甲府盆地を通過するが、桃の花どきの車窓の左右はあたかも桃源郷もかくや、という風景が展開する。その美しさがずっと胸に焼き付いていて、男の子なら桃太郎、女の子なら桃子、と決めていたのである。句には「長女桃子結婚」という前書きを付した。娘の名前を入れ、当時の私の生活状況を加えてみた。 |
4月 4月18日(日) 9時半、小田急線伊勢原駅。次女の婿、孫2人。長女の孫2人。計男6人で大山登山。下社までケーブルカーを使う予定を立てたが、孫達が歩く! というので男坂の急登からスタート。下社辺りでようやく身体が馴れてきたものの、山頂13時過着。へとへと。眺望良好で伊豆半島、真鶴半島、三浦半島、房総半島まで一望。富士山も。昼食。下りは見晴台コースを廻る。引率のつもりで来たが、孫達の足は早く、付いていくのがやっと。下社から私だけケーブルカーに乗る。伊勢原駅着17時半。駅前の居酒屋に入り孫達に食べさせる。帰宅すると近所のレマちゃん夫婦が来ていてお好み焼(レマちゃんが神戸出身で名人)。 4月19日(月) 8時半の新幹線に乗車。名古屋へ。一昨日、月末期限のホテル宿泊券が残っていると娘が言うので、名古屋を選んだもの。富士山が美しい。新幹線ホームのきしめん店に入り、朝、昼兼用の食事。東海道線で二駅先の清洲城を訪ねる。道を尋ねた婆さんが案内してくれる。月曜日で復元天守は休館ながら、城跡の雰囲気を楽しむ。城跡は鉄道に分断されている。名古屋に戻って桑名へ。八間通から本統寺、七里の渡、ザフナツヤ(船津屋)、桑名城址(九華公園)など巡り、タクシーを頼んで揖斐・長良の二川を渡り、長島の大智院へ。曾良、芭蕉の縁の地。曾良はこの地で青少年期を過ごした。寺は留守の様子で、しばらく境内や横の堤防など散策していると住職夫妻が帰宅。声を掛けると本堂に招いてくださり、1時間ほど話し相手になってくれる。いろいろ収穫あり。伊勢、長島城は今、小中学校の敷地。18時頃名古屋に戻り、「ヒルトン名古屋」へ投宿。18階の豪華な部屋。近くにいい雰囲気の店を見つけて入る。「大甚本店」という古そうな店で、賀茂鶴の大樽が据えてある。鰯煮、ヤリイカ煮、ばい貝煮。煮蛸、奴、鮪の刺身。大きな徳利を2本飲んで、4,000円は安い! 「山本屋」の味噌煮込うどんを食べて21時過ぎには就寝。 4月20日(火) たっぷり寝る。11時半迄ホテル。エッセイ一本。選句など。朝昼兼ねて味噌カツ定食。地下鉄で名古屋城。見事な縄張り。隅々まで見て復元本丸御殿。これも実にいい仕事! 城の見学三時間ほど。大須観音をお参りして伏見の昨日行った居酒屋「大甚本店」へ。子鮎の飴炊、白和、イカと帆立の刺身。太刀魚塩焼。生牡蠣一つ。蜆汁。賀茂鶴2本。ビール大瓶一本。十九時半位の新幹線に乗車。昏々と寝て東京へ。 4月21日(水) こしだまほさんへ依頼した銀漢亭の写真データ、沢山到着。NHK出版に送る。伊那の井上井月顕彰会の竹入弘元先生が4月18日逝去されたと。私の高校の恩師でもあった。2年前の伊那の大会にわざわざ夫人の運転で会いに来て下さり、銀漢基金を頂戴したのが最後であった。 4月22日(木) 13時、両国駅集合。伊那北会で小さな吟行。回向院、江島杉山神社、江東区芭蕉記念館、芭蕉稲荷神社など3時間ほど歩き、「三州屋」で小酌し、16時の開店を待って森下の「山利喜」。煮込でワイン、あと酒へ。18時にはお開き。 4月24日(土) 農家の野菜買いに自転車で。「あ・ん・ど・うクリニック」。血圧だいぶ落ち着いているので薬の量を減らそうと。酒が減ったこと、睡眠をたっぷり取っていることが効いてきたか? 体重は減らないが……。 4月25日(日) 14時、飯田橋、角川本社。「俳句」合評鼎談。今日は私が司会。丁度2時間で終わらせる。緊急事態宣言3度目の初日。 4月27日(火) 11時、新宿某生保打ち合わせ。昼、神保町の郵便局にて銀漢の資金移動。13時から発行所にて北辰社の役員会。武田、杉阪、川島、渡辺、柊原、多田、今井。17時、愛宕下の藤井公認会計士事務所。少し時間があったので、愛宕神社の裏に廻ると、杉田玄白の墓がある。 4月29日(木) 司馬遼太郎の『街道をゆく』の43巻「濃尾参州記」(未完)が手許に届く。娘にネットで取り寄せてもらうと、何と代金1円、送料257円。合計258円という。本の価値はどうなってしまったのか! 新品である。6月号同人、会員分選句終了。夕方、成城仲間の2家族来宅。食事会。 5月 5月1日(土) 「銀漢」6月号の彗星集書いて執筆終了。俳人協会のカレンダー来年2月用に短冊を書いて送る。この字が載るとなると何とも恥ずかしい。 5月2日(日) 先日の伊勢長島訪問で触発されて河合曾良について「銀漢」用エッセイ3回分を書く。俳人協会の「第60回全国俳句大会」一次予選にとりかかる。分担約3,000句あり。夕方、家族で成城仲間のN家へ。3家族集まる。砂肝のニンニク風味炒めと糠漬持参。メインはBBQ。 5月3日(月) 伊那北会(といっても3人)10時半、東武動物公園駅集合。バスにて関宿城跡へ。植田の中を歩く。利根川と江戸川の分岐のあたりに城跡あり、模擬天守が県立博物館。水害、河川改修の歴史は凄い。久世藩の資料室もあり。明治の河川大改修により城跡はほとんど痕跡を残さないほど。明治まであった城の跡がここまで消え失せたのは珍しい。僅かな痕跡数カ所を見て、終戦時の首相「鈴木貫太郎記念館」を少しだけ覗いて駅へ戻る。駅前の居酒屋が酒は出せないというので、春日部に出て居酒屋を探す。井蛙さん誕生日にて祝杯を挙げる。帰宅すると成城仲間2家族、孫の友人などが来ていて少々歓談。 5月4日(火) 俳人協会「第60回全国俳句大会」の一次選考を送る。井上井月顕彰会の北村会長より、9月の伊那の井月祭での講演の依頼あり。 5月6日(木) O氏句集稿2回目の点検。調布市文芸祭講演会の用意。16時、新宿駅に武田編集長、杉阪氏と打ち合わせ。喫茶店にて北辰社の株主総会の書類承認印。あと久々近況報告をし合う。 5月7日(金) 自転車で散策。農家の野菜、喜多見方面で肉、魚。「銀漢」6月号の校正作業。高校同期の泰明君と5月下旬、会津〜高山のドライブ計画あったが、緊急事態宣言延長で中止とす。 5月8日(土) 「銀漢」7月号のエッセイその他。自転車で祖師谷大蔵へ買い物。夜、杏一家きて夕食。久々、春雨のうま煮を用意。NHK俳句7月号の「復活銀漢亭一句旬菜夏野菜編」のゲラ着。大判の雑誌の7頁を使ったカラーという贅沢。 5月9日(日) 夕方から庭でBBQパーティー。母の日の祝い。丁度、三浦半島から到来した蚕豆を焼く。仙台「司」から取り寄せた牛タン。爽やかな気候。 5月10(月) 「本部句会」「大倉句会」などの選句。雑用などこなして1日部屋で過ごす。蚕豆と海老の胡麻ソース和、〆鯖と大葉、茗荷のポン酢和など夕食を作る。コロナウイルスのワクチン接種の案内来る。 |
△ ハマゴウ(浜拷) ハマゴウの葉は丸みを帯びており、葉の大きさは3~6cmです。葉の裏側に微細な毛が密集しているため、白っぽく見えます。生の葉をいぶったときに出る香りが蚊を寄せつけないとされ、蚊とり線香のない時代に蚊よけとして活躍しました。 |