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8月号 2021年
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伊藤伊那男作品主宰の8句 今月の目次銀漢俳句会/2021/8月号 銀漢の俳句伊藤伊那男
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銀漢の俳句 ◎河合曾良の謎⑵ 河合曾良という名前は『おくのほそ道』の文中に出てくる俳号である。「曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒を並べて予が薪水の労をたすく」と紹介されている。通説としての曾良の出自について「春耕」同人 乾佐知子さんの連載「曾良を尋ねて」より次に引く。 ――慶安二年(一六四九)、信州諏訪高島藩城下の酒造業高野七兵衛の長男として出生。幼名与左衛門。その後二軒隣りの母の実家、「銭屋」河西家に引き取られて四歳まで過す。その後伯母の嫁ぎ先岩波家に養子として入り、岩波庄右衛門正字と名乗る。十二歳の時養父母が相次いで病没。十九歳で伯父を頼って伊勢長島へ移る。長島藩に仕官するために河合源右衛門長征の養子となり河合惣五郎と名乗る。―― 以上異説はあるものの一般的に知られている略歴である。一番確かな名前は岩波庄右衛門 さて、これは巷説、といっても極一部で囁かれていることだが、曾良という俳号は木曾川の「曾」と長良川の「良」を取って芭蕉が名付けたのではないか、という説がある。今回伊勢長島を訪問してその地勢を見て、私はそれは確かなことではないか、と実感した。大智院の目の前の堤防に上ると、川を挟んだ対岸に桑名城下が見える。眼下の川は二筋あり、真中に細い中洲があり、まだ合流はしていない。桑名側が揖斐川で、長島側が長良川である。一方長島の愛知県側、名古屋との間を流れる大河が木曾川である。つまり長島は木曾川と長良川に囲まれた巨大な中洲なのである。河合の苗字も、名乗ったことがあるかどうか実は判らないが、二つの大河に上流、下流で挟まれている地形を見れば、まさに「河合」である。木曾川と長良川の合わさるところ、という絶妙な名前で、芭蕉ならいかにも考えつきそうな俳号である。 曾良にとっては諏訪が第一の故郷であり、青年期を過ごした伊勢長島が第二の故郷である。一番多感な人間形成の時代を過ごしたのが大智院であり、伊勢長島城である。ところが不思議なことには伊勢長島藩の記録にも、江戸の神道家吉川惟足の門人名簿にも先述の曾良にまつわる苗字は一切残されていないのである。 |
先生は昭和二十二年サイゴンから帰還。同年結婚して上京。船舶運営会社に復職している。この句は「病後那須行」の前書きのある七句の内の最後の句。年譜等には病気のことは出ていないので重いものでは無かったと思われる。昭和二十五年といえばまだ戦後の混乱期にある。那須も客が多かったとは思えない。そうした湯治場の様子が彷彿する。先生は戦後であっても病後であっても世情に動じない精神の強さがあったな、と思う。(昭和二十五年作『積荷』所収 ) |
彗星集 選評 伊藤伊那男伊藤伊那男・選川の字のほどけきつたる大朝寝 中島 凌雲
柏餅買ふや仏も人数に 長谷川明子
老鶯やこだまの返る石切場 岡城ひとみ
供花として贈るほかなし母の日よ 堀江 美州
春の果て姨捨山に置かれたやう 新谷 房子
遠足のうぐひす廊下鳴きどほし 瀬戸 紀恵
夏場所や川風分くる向う疵 中村 湖童
どくだみや鞄の底の処方箋 三井 康有
一滴は光のしづく新茶かな 武井まゆみ
寝茣蓙褪す父の背ありし辺りより 伊藤 庄平
火山灰残る耕二の句碑や鳥曇 今村 昌史
キヤンプフアイヤー高きに燃ゆる子の未来 坂口 晴子
また一行鬼籍が埋まる冷奴 加藤 且之
宵の灯のうつる玻璃戸や葛桜 宇志やまと
葉山寧日雀隠れに帆が浮かび 唐沢 静男
母の日の塵の鴨居の鯨尺 桂 信子
白鷺は杭になりきる川柱 大野 里詩
更衣吾子にも小さき力瘤 坂下 昭
絢爛を競ふ躑躅と権現と 伊藤 政三
子と作る糸巻き戦車昭和の日 坂下 昭
銀河集作品抄伊藤伊那男・選 万緑へ入る語られぬ神の山 東京 飯田眞理子
春眠や市井の声を遠くして 静岡 唐沢 静男 たらつぺと親しき呼び名野の馳走 群馬 柴山つぐ子 雪占を禰宜の見てゐる春祭 東京 杉阪 大和 静かなる水輪集めて梅雨の鯉 東京 武田 花果 五山はも安居迎ふる作務の中 東京 武田 禪次 だんだんに火勢を上ぐる山躑躅 埼玉 多田 美記 ぢき会ひに帰ると母に四月馬鹿 東京 谷岡 健彦 おもひでに少しくわらふ通夜朧 神奈川 谷口いづみ 骨壺の母と土手ゆく花曇 長野 萩原 空木 おそらくはどれも利き足蛸食らふ パリ 堀切 克洋 花衣脱ぎ弔ひへ急ぎけり 東京 松川 洋酔 あんぱんの臍の謂れや四月馬鹿 東京 三代川次郎 綺羅星集作品抄伊藤伊那男・選
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四苦とは生・老・病・死。加えて愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦で八苦となる。作者は仏生会と聞いて、そういえば、人は成仏するというけれど、苦労は減らないものだなあ、と思う。仏道者ではなく庶民の感覚である。言われてみれば私も仏教徒という、平均的日本人の思いであろう。「爾来なほ」の打出しが見事である。 |
今村句は「鴛鴦(えんおう)の」と読む。「鴛鴦の契り」から来ている言葉で、仲むつまじい夫婦のどちらからともなく以心伝心で茶を淹れた、という。老夫婦と思われるところから「古茶」の季語が生きているようだ。上田句は「盛衰も無き」と言っているけれど三代が平穏に続いていたとすれば、それは極めて幸せなことである。この句では、新茶が出たことによって古茶に気付く、即ち一族の平和に気付くという仕掛けで、いずれも「古茶」の季語の取合せが秀逸であった。 |
両句共、蛸の足が八本あることに着目したところから発想された句。八本が各々自在な動きをしている様子を伊藤句は「それぞれの意思ある如く」と捉え、堀切句は「どれも利き足」と捉えた。注目点は似ているが、独自の感性で詠んでいるところがいい。各々に一物仕立ての良さが出ているようだ。 |
信州人の私は鯉については一家言がある。何と言っても「鯉こく」が一番である。内臓もそのまま筒切りにした塩の効いた信州味噌の汁。適度な脂が浮き、味を丸くする。鯉は包丁式にも使われるように、味も容姿も第一級の魚。滝登りもする強靭さを持ち、端午の馳走としては最高だ。なお皮も内臓も骨も抜いて白味噌仕立てにする地方もあるが、私としては以ての外。全身から滲み出る汁が旨いのだ。 |
嵯峨野落柿舎の嘱目であろう。私の学生時代落柿舎の座敷に上げてもらい、持参した弁当を食べた記憶があるが、今はどうなのであろうか。この句の面白さは置いてある円座を見て、その凹みは去来が座った跡ではないか、と思うところ。歴史を瞬間移動するこの作句法は高度な技倆である。 |
面影橋とは味わい深い名前だ。神田川に架かっていた橋で都電荒川線の駅名の一つでもある。太田道灌の山吹の故事や、夫のあとを追って身投げした姫君の伝説などがある。句の中の母校とは恐らく早稲田大学ということになろう。先述の秘話などを併せると「惜春」の季語が見事に合っているようだ。「惜」は心中に重なる思いを言う。面影橋という地名も、母校にも響き合う仕掛けである。 |
和賀江嶋は鎌倉材木座海岸の海中の浅瀬で、鎌倉幕府初期の港であった。中国宋からの貿易船も入港したのであり、実朝は巨船を作ったものの動かなかったという話が残っている。北条執権時代に朝比奈の切通しを開き六浦へ港が移り衰退した。今も和賀江嶋周辺には輸入品の青磁などが眠っているのであろうか。春潮の色彩感がいい。 |
俳人は安易に「聖五月」と詠むが、ちゃんと詠むならばキリスト教の聖母月などについて理解し、共感した上で使いたいものである。そうでなくて他人事として詠むならば掲句のような詠み方がいい。決して貶めるわけではなく、まるでキリスト教系の保育園の園児のような無邪気さで詠んだ、このような句がいいのである。 |
「水の夜」「蛙の夜」がいい。田植のあとの田圃は水の匂に満ちている。まだ稲の匂はしないのだ。蛙の声だけがあちこちに湧き上がる。そんな夜更け、寝るためだけに家に帰る。清冽な夜気の中である。「寝に帰る」と、ぼそっと言ったところに作者の生活感が滲み出ているようだ。 |
今から見ると若過ぎる作りの帽子なのであろうか。使わないけれど数々の旅の思い出が詰まっていて捨てることなどはできない。欧州の太陽や風を十分に吸い込んだ思い出の帽子である。「欧州駈けし」が具体的で実感を深めている。 |
その他印象深かった句を次に
完璧な舞台設定の句である。その昔はまたぎや木工職人が住んだ集落が、その古い建物を生かして民宿になっているのであろう。大きな鋸が鴨居に掛かっている。積年の囲炉裏の煙で梁も黒光りしているのであろう。俳句は具体的な「物」を提示することが成功の秘訣で、ここが舞台装置の良さである。私が思い出すのは山形の田麦俣の重層民家、檜枝岐の民宿。各々魚は岩魚であったけれど。同時出句の〈蒸鰈せせれば雨の強くなる〉もなかなかいい情趣である。各々鮎、蒸鰈が美味に思える舞台作りができているのだ。 |
天竜川はその名の通り昔は暴れ川であったようだ。伊那の河岸段丘は地理の教科書にも出てくるが、往古はそこまでを天竜川が削った痕跡で、つまり今の伊那市街は丸ごと川底だったことになる。私の郷里駒ケ根市に河童伝説がある。河童を助けた家がお礼に川原の薬草を教わり、製薬業で栄えたというような話であったと思う。そんなことを思いつきそうな川である。「夏近し」が効いているように思う。同時出句の〈蔕ひとつ梢にありて柿若葉〉は観察の目が確か。柿の木だからこその「蔕」である。 |
夏祭でも秋祭でもなく、確かに「春祭」の景である。田起しの始まる前の豊作の予祝としての祭なので、神社に向う畦道も崩れていたり弛んでいたりするのであろう。この祭が終ればまた黒光りの畦になる。少し弛んだ畦道とは実感のある把握で、解っていたけれど詠めなかった一つの発見がある句といえよう。 |
コロナ禍の世相を詠んだ句である。「コロナ禍」とか「自粛」とかいう言葉が入った句が沢山投句されているけれど、私はほとんど採っていない。その場限りで終ってしまう句が多いのである。そのような中で、この句は十年後でも多分生き残る句だと思うのである。「厄災」はいつ来ても不思議ではない。そこに「毒消売」という、もはや使う人もほぼいない季語を付けたのが手柄である。ワクチンを毒消という季語に仕立てた発想は見事としか言いようが無い。なかなか順番が廻ってこないもどかしさや、混迷した世相をもしっかり捉えているのである。 |
秩父には「秩父七湯」があり、いずれも山峡にひっそりと佇んでいる。少し前までは「鉱泉宿」と呼んだ。湧出する湯の温度が摂氏二十五度未満の場合は温泉ではなく鉱泉という設定になっていた記憶がある。そんな山間の宿ならば河鹿の声も聞こえてきそうである。河鹿はアオガエル科で美声。この句は「緩ぶ五体」がいい。この句を見たら誰もが秩父に行きたくなるではないか。そういう句がいい句なのである。 |
我部敬子著『衣の歳時記』によると、あつぱつぱは関東大震災のあとの社会情勢の中で安価な簡単服として製造され、大阪で爆発的に売れたという。 あつぱつぱとは裾がぱっと広がるという大阪言葉。銭湯帰りに、あたかも風を纏っている位の感触だという所が本意を捉えている。 |
この感慨、実によく解る。みたらし団子などもそうだが、家だったら皿を舐めてしまうかもしれないが、外ではそうもいかない。その口惜しさがよく出た滑稽句である。私などラーメンの汁だって、冷し中華の汁だって‥‥。 |
いかにも白靴である。夏を迎えて特別な気持ちになるのだが、その気持ちをどう表現するか、である。「行けばいづこも輝けり」には白靴を履くと、普段の道も町もすべてが新鮮に見えたという幸福感が伝わって来る。「白靴で行けば」という散文調の出足もこの句では決して悪くない。 |
『おくのほそ道』の那須の段に、難渋している芭蕉に馬を貸してくれる野夫がいて「この馬のとどまる所にて馬を返し給へ」という。「やがて人里に至れば、あたひを鞍壺に結び付けて馬を返しぬ」とある。作者は現在の那須野の実景の中でこの故事を思い起こしたのであろう。古典から題材を取った知的構成の句である。同時出句の〈惜春や地図の旅路は津軽まで〉も味わい深い。 |
伊那男俳句 自句自解(67) 光秀の討たれし藪の筍と
NHKの大河ドラマなどで近時明智光秀が見直されているが、この句はまだ主殺しの極悪人の烙印を押されていた頃のもの。光秀は教養も自尊心も高く、それ故信長の奇想天外な発想や残忍性に馴染めず、格下であった秀吉の昇進が理不尽に思えたことであろうし、将来の地位の不安も渦を巻いて本能寺の暴挙に到ったのであろう。善悪の問題ではない。計画性が無かった挙兵は三日天下(十日足らず)で終り、山崎の合戦に敗れて敗走中、京の南郊小栗栖で野伏せりの竹槍に刺されて果てた。その竹槍から京の筍へ連想が及んだのである。歴史的に見ると今珍重される京都の筍は孟宗竹であり、光秀の時代にはない。戦国末期に大陸から鹿児島に入り東漸し、京に入ったのは江戸中期と思われる。映画やドラマでは孟宗竹の竹林が舞台になるが間違い。句は敗者を詠んでみたかったこともある。同じような発想の句では以前〈鎌倉の公暁の忌なり悴めり〉がある。実朝を討った同日が忌日である。 山頂に一歩銀漢にも一歩
四十代の初めに職場の仲間に誘われて登山を始め、約十年で一七〇数回登った。東京近郊は電車を使った日帰りが基本。少し遠方の場合は金曜日の夜十二時とかに新宿辺りに集合して車で山麓まで行って仮眠し、暁闇から登ってその日の内に東京に戻って、日曜日は普通に暮らす。夏季に泊り掛けの計画を組んで東北や信州の山を目指した。深田久弥の『日本百名山』は意識しなかったが、あとから数えてみると七十山位に登ったことになる。さてこの句は新穂高温泉側から槍ヶ岳を目指したときの回想句である。肩の小屋に泊って、早朝といっても真暗な中を山頂に向う。幸いにして満天の星空が拡がっていた。山頂への一歩を登るということは、すなわち銀漢へも一歩近づくことだという大袈裟な句である。だがあれだけ登山をしながら数句しか無い私の登山句として残しておきたいのである。「一歩」のリフレインも必然性があるし、「にも」が機能している愛着の深い句である。 |
5月 5月11日(火) ワクチン接種の予約すぐ取れる。夜、発行所にて「火の会」8人。「北軽井沢句会」記念号へエッセイ。 5月13日(木) 毎日新聞の俳句SNSアプリ「俳句てふてふ」の「俳句万華鏡」へエッセイ。第二芸術論について。雨。角川合評鼎談(6月号用)の校正。幾つかの句会の選句。 5月14日(金) 都心に所用あり、あと久々、神楽坂を歩いてみる。懐かしい店多し。山菜を売る店あり、行者にんにく、蕨、エシャレット、アスパラガス、たくわんなど買い込む。何10年ぶりか「手打そば志な乃」に入る。満足。靖国神社に足を伸ばして帰る。 5月17日(月) 思いついて砂町銀座に行ってみる。波郷の町。商店街は約700米。コロナ禍と月曜日で休みも目立つが、実にいい商店街。往復して途中で見付けた「銀座ホール」というレトロな店。和洋中華何でもあり。ハンバーグごはん注文。また来たい店。惣菜屋のトンカツ、メンチカツ、煮卵。魚屋で鮑、鰤切り身、鱈子。八百屋で蕨を買う。安い!帰宅して蕨の灰汁抜き、鮑の酒蒸しなど。 5月21日(金) 10時半、横浜市営地下鉄センター南駅集合、伊那北会。茅ヶ崎城へ。駅であっ、と気がついたのは、5、6年前であったか、「早蕨句会」(久重凛子さん)の案内で吟行に来た城跡であった。小雨の中を巡り、北駅近くの横浜市歴史博物館へ。2時間ほど横浜市の歴史を見たあと、続きの大塚・歳勝土遺跡公園へ。山法師の花が満開。ここもその折に訪ねている。15時頃か、北駅のサンマルクで昼食。緊急事態宣言中で酒は出ない。駅前で真竹の筍を2本買って帰る。 5月22日(土) 14時、飯田橋の角川書店にて「俳句」6月号についての合評鼎談。丁度2時間ほどで仕上がる。帰宅して筍の豆豉炒め、いなだの酢〆、焼そばなど。 5月23日(日) 数句会の選句。「俳句てふてふ」歳時記夏の部の校正など。店の来客だった某氏より句集出すので見てほしいとの依頼あり。選句と意見を伝える。夜、近所のT家で食事会に招かれる。料理二品ほど持参。私は早めに退出。 5月24日(月) 農家の野菜買いに。「あ・ん・ど・うクリニック」。前回から降圧剤の量を減らしたが大丈夫のようだ。 5月26日(水) 「銀漢」7月号の選句稿。各々、担当者に宛て投函。劇団四季「ライオンキング」夜の部を見に大井町。4回目。これで大井町公演終わり、秋には有明へ移転。今日は大学1年の孫、莉子の初運転で。 5月30日(日) 長者丸(品川区上大崎)の宮澤事務所を成城学園前のビルに移すことになり、今日が引っ越し最終日。家族で記念写真を撮りに行く。20年前、私が世話をした物件。庭の梅の実を収穫してくる。 6月 6月1日(火) 調布市の文芸講演会の講師。1時間40分ほど。久々、人前で話す。あと「炎環」編集部、かつ同郷の縁から、銀漢同人になって下さっている竹内洋平氏のご自宅を訪問。奥様も同郷。今回私を講師に呼んでくださった宝田氏も一緒。17時くらいから5時間近く置酒歓語。講演の続きで口が滑らかになり喋りすぎて失礼ではなかったかと……。すっかりご馳走になる。 6月2日(水) 1日空いたので、久々、立石の商店街へ行ってみる。緊急事態宣言を忠実に守っており、ほとんどが休業中。駅前開発も続いている。急遽、成田へ行くことにする。新勝寺を何10年ぶりかで参拝。15時の大護摩。参道の「川豊」で鰻重と鯉こく。ビール一本。 6月4日(金) 「雲の峰」の渡辺政子様逝去と。純真で周囲を明るくする方であった。享年79歳と。合掌。 6月5日(土) 朝の新幹線で気仙沼へ向かう。土産を忘れる。小田急で千代田線に入ってしまう。パスモと切符がうまく入らない……と、失敗ばかり。太田うさぎ、近恵さんと。気仙沼駅に小野寺清人、一砂兄弟の迎えを受け、二つの橋を渡って気仙沼大島へ(NHK連続テレビ小説の亀島)へ。一砂家の庭にてバーベキューパーティー。地元の方々数名も加って下さる。畠山重篤氏も挨拶に寄って下さる。清水旭峰医師、光明寺住職。伊藤政三、こしだまほさんなども。蒸し牡蠣、つぶ貝、帆立貝焼、ソーセージ、気仙沼ホルモン、くさや。一砂さん秘蔵の銘酒が次々に空く。あと家の中に移り、鮑、インド鮪他、ふんだんな刺身。蛤……。17時頃お開きとし、本日泊りの大鍋屋へ(小野寺元防衛大臣の生家)。21時、清水先生の顔で、「あさひ鮨」を開けて貰い二次会。志村昌さん到着。斎藤克之氏が酒を届けて下さる。22時半、就寝。 6月6日(日) 5時起床。風呂。快晴。6時半、朝食。7時半、出発。室根山へ向かう。ごくごく内輪で、第33回「森は海の恋人植樹祭」。昨年に続き、一般への告知はなく少人数。場所は昨年と同じ矢越山。室根山が美しく見え、時鳥がしきりに鳴く。昨年植樹した苗が育っている。標に〈海に礼山に礼して苗木植う〉。今回は、〈海守る為のひともと苗木植う〉。気仙沼へ戻り、舞根の畠山重篤氏の仕事場を訪問。汽水湖に潮が出入りするのを見る。居合わせた東京都立大学の横山先生から解説を聞く。今日は宿にスマホを忘れる失態あり。清人さんに一ノ関まで車で送ってもらい解散。東北本線に乗車。何と2両編成のワンマンカー。小牛田で四両編成に乗り継ぎ。塩釜に下車し、タクシーで塩竈神社へ。200数10段の石段を登る。壮麗な社殿は圧巻。海側へ降りると廃仏毀釈で壊滅した寺跡あり。この参道に芭蕉は宿泊した筈。すぐ近くに御釜神社、「浦霞醸造元佐浦」あり。入り口がその廃寺の建物の一部。行き当たりばったりで「ひなた」という店に入る。突き出しに山かけ、もずくなど5品が出る。ほや、蛸刺、北寄貝焼、茶碗蒸。浦霞、日高見と地元の酒を楽しむ。「ダイワロイネットホテル仙台」に投宿。近所の焼鳥屋で少々。 6月7日(月) 6時起、風呂、日記。9時過の東北本線で国府多賀城。浮島神社、多賀城碑(壺碑)、国府跡など、3時間近く散策す。奈良から平安にかけての対北方最前線の守りの国衙。仙台駅に戻り、歩いて瑞鳳殿。仙台市営バス「るーぷる仙台」「にて仙台城跡。大崎八幡宮を巡る。駅ビルの飲食店街で1時間ばかり飲む。今日は2万歩ほど歩いている。蒸ほや、長茄子漬。 6月8日(火) 山田真砂年氏より旅の最中に、「こもろ・日盛俳句祭」の出句がまだ届いていない! と。兼題併せて15句。昨日、今朝と慌てて作り投函。髙坂小太郎さん展覧会の記念冊子届く。夜、発行所「火の会」8人。 |
△パンパスグラス パンパスグラスとは草原地帯(pampas)に生える草(grass)という意味であり、英名で「pampas grass」と呼ばれています。和名では「白銀葭(しろがねよし)」と呼ばれ、花穂がピンクや白銀色であることが由来とされています。 |
百日紅 | モミジアオイ | ハイビスカス | 檜扇 | 南天 | |
ヤナギハナガサ | 葛の花 | ハマゴウ | スイートピー | パンパスグラス | |
千日紅 |
シマトネリコの実 |
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夏水仙 | ブッドレア | |
烏瓜の花 | 槐 | 吾亦紅 | ハゼラン | 玉簾 |