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11月号 2016年
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伊藤伊那男作品芭蕉の葉 伊藤伊那男
江ノ電の一車輛ごと潮浴びに 心眼でやつぱり見えぬ西瓜割 口癖は千代に八千代に生御魂 盆提灯草葉の陰へ火の廻る 十哲を煽つてゐたる芭蕉の葉 水分の神の配れる秋の水 炭坑節だけはどうにか踊れさう 着陸の機影被さる鯊の舟 今月の目次銀漢俳句会/11月号 銀漢の俳句伊藤伊那男
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◎父のこと、兄のこと 2歳上の兄は多摩センターのビルの中で耳鼻咽喉科の医院を開業していた。患者の選ぶ医者のランキングの上位に入っていたこともあり、朝、番号札を置くと10分位で1日分が無くなるという人気のある医者であった。その兄が、昨年会った時、そろそろ引退するよ、と言っていたが、本当に5月で医院を閉じた。「趣味も無いのにこのあと何をするの」と問うと「畑を耕して、蜜蜂を飼って、薫製を作ったりする」と言う。引退後誰もが考える典型である。「まあ飽きるまでやってみるよ」と。 さて我々の父も耳鼻咽喉科の開業医であった。父も「忙殺」と言っていいほど繁忙の人生であった。朝6時位から患者さんが番号札を取りに来る。夜も急患が来るわ、往診要請の電話が鳴るわ、という日々であった。子供の多かった戦後のこと、夏休みなどは一日に200人を越える患者が来院し溢れて廊下の窓硝子が割れたこともあった。当然診療報酬の請求作業も大仕事であった。全て手書きの時代である。月の内10日間ほどは夜中までその作業に追われる。耳鼻科は1人当たりの点数が低く、数が勝負なのである。 そういう生活なので、酒好きの父だが夕食時の晩酌の習慣は一切無かった。夕食の後も仕事に追われたからである。困るのはその反動であったのか、医師会の集まりなど気の置けない会があると大酒を飲んで豹変することであった。日頃無口で人と会っても目を伏せるような父なのだが、大酔を発した時は飯田線の電車の前に立ちはだかったり、自転車を漕いだままの姿勢で道に倒れていたりするのであった。私も兄も酒飲みだが、酔っても父のようにならないように、これだけは反面教師にしようと誓ったものである。 父は私が結婚した頃であるから60歳位の時から海外旅行の楽しみを覚えて、盆と正月は必ず母を伴ってどこかの国へ行っていた。写真が趣味だったので、その楽しみのために働いていた感じである。私も、ドイツに留学していた兄一家を訪ねる旅や、北京やニューギニアなどの旅に同行したことがある。 働き続ける父に私達は何度か引退を勧めたが、結局82歳の時、夜、患者が来て診察をしている最中、脳梗塞で倒れた。それから10年近く車椅子の生活を続けて死んだ。 そんな父を見てきた兄は、まだ体力と気力が残っているうちに、好きなことをやっておこうと決心したようである。それもまた良し。だが私としては支えの一つが無くなった感じで淋しい。 さて、いつまで銀漢亭を続けることになるのか………。 |
「山形県・亀岡文殊堂 四句」の前書のある内の一句。寺名は (昭和45年作『銀山』所収) |
山頂に郵便局があるというのは確か富士山だけであったか?夏だけ臨時に置かれる郵便局である。涼しさの極みの山頂から登頂の知らせとともに飛来する夏見舞いとは何とも楽しいではないか。富士山からであれば、ああ今あのビルの谷間に小さく覗くあの……という思いも一入である。 |
いかにも懐かしい句である。大相撲と違って、本来の季語の相撲である。たまに神社の境内に土俵を見ることがあるが、地域の人々の奉納相撲である。この句は海辺の半農半漁の神社であろう。即席でつける四股名が、経営する漁船の名前○○丸……。そんな呼び出しを受けて土俵に上がるのである。読み手の目にありありとその情景が浮かび上がる実感を持った句である。 |
学生時代の帰省時は、母にあれこれと東京の暮らしについて聞かれて、応えるのも面倒だったものである。ところが自分でも所帯を持ち、子供も出来たあたりから変わってくる。父母も年を取ってきて、帰省の度に父母の生活が心配になってくるのである。今度は逆にこちらから日々の暮らしのことなどを聞く。「また来るから元気でいてね」……と立場が逆転していく。「帰省」を詠んで珍しい句となった。 |
ゴルフであろうか、第一打が大きく外れて草叢へ消える。探しに入ると今までは気が付かなかった草いきれが鼻を突く。都会生活ではなかなか感じなくなった草いきれが、こんな処にあったとは!という作者の感動である。そのあとも度々あるかもしれないが第一打だからこその面白さ。 |
延命治療を受けるかどうか、極めて難しい判断である。強烈な副作用を抱えるかどうか、とか、意識の無いまま生きる意味は?とか、様々な思いが巡ることになる。我々の年代あたりからそんな事が現実問題に浮上するのだ。私の義兄も、医者である兄も健康診断を受けない。知人の一人も余命0ヶ月宣告を受けた後治療を拒んで、その後も普通に暮らしている。各々私にできるかというと難しい。蝮酒などという、効くか効かぬか解らない物を持ってきて私に難しい問題を提示したのである。 |
夏の夜、百本の蠟燭のもと、一人ずつ怪談を語り、燭を消していく。最後の蠟燭を消すと本物の化物が出てくるというのである。句は百全部が違う声色で闇に吸い込まれていく、という。だんだん怖くなる様相を追ったのだ。 |
なるほど石棺、比喩の奇想さは今までにない。 |
盆の頃の長けた雑草の様子が如実。品格の高さを思う。 |
日が落ちて熱気の残る石垣。体感を読んで出色。 |
だんだんと近づく錫杖の音に夏芝居の怖さが伝わる。 |
祈りの深さ。祈りへの長さが伝わる真摯な句。 |
四国第一の信仰の山。そこに続く盆の道である。 |
少し気取ってみせたものの、とてももたない帰省子。 |
校庭に整然と並んだ生徒たちの朝礼とひまわり畑が重なる。 |
観覧席と見るか、天上の父母を偲んでの事か。 |
動物の擬人化(はしゃぐ)は好きではないが、これは可。 |
「千に一つの無駄もない」というのは茄子の花と母。 |
気の置けない町内だけで過ごす一日の様子が解る。 |
都会の盆踊りの様子である。それぞれが故郷を思い出して。 |
こんなことも今日的情景。屋台の取り合わせの面白さ。 |
伊藤伊那男
以前、夏休みに毎年のように軽井沢に行ったが、帰路の関越道で必ずといっていいほど雷に会ったものだ。最近ではこもろ日盛句祭のあと「北軽句会」に寄るが、日暮れと共に雷鳴が響き、慌ててガーデンパーティーを畳むのが恒例である。上州の雷は必ず手荒な接待をしてくれるのである。そんな様子が隈なく語られている句である。 |
近江湖北の一点に集中して十一面観音の秀作が残っている。各々に個性があり、もちろん頭上の十一面のお顔も各々である。その十一面が各々の秋に入るというのであるから何とも愉快な発想である。「秋思」という言葉などが自ら浮かび上ってくるのであり、その余韻がいい。 |
言葉遊びの句はあまり好きではないが、この句には唸るしかない。「焼酎はロック」となれば氷塊を浮かべたグラスということになるが、そのあとの「有線から演歌」とあると、演歌に呼応するのはロックンロールミュージックということになる。「ロック」の二重性。そのような無用なことに頭脳を使って酒を飲んでいるのだと思うと、可笑しい。 |
私はどちらかといえば写生派なのだが、このような句も嫌いではない。多分紀国屋文左衛門の屋敷が始まりと言われる清澄庭園あたりの嘱目であろう。これらの庭園は明治時代に財閥の手に渡っている。そのような歴史を皮肉な目で詠み取っているのである。「撒き餌に馴れ」がうまい。 |
何とも色彩の美しい句だ。最近流行のオムライスで、炒めたご飯の上に乗せたオムレツの峰に刃を当てると重力で開いてご飯を覆うのである。外には色鳥が飛翔する。 |
私の思い出では夜店の終わりは悲しかった。次第に屋台の灯が消えていく。焼烏賊の匂い、アセチレンガスの匂いも消えていく。ただ烏賊や焼きそばの鉄板はそう簡単には冷めない。そんなところに目を止めたのは見事である。作者の夜店への思いも「冷めやらず」に重なるのである。 |
南洲は西郷さん。私より少し前の時代、東北よりの集団就職の列車が続々と上野駅に若者を送り込んだ。その歴史を西郷像は見ていたのである。今、その方達も含めて夏季休暇で古里に帰る列車を見送っているのだ。列車は新幹線に変わり、地下からの発車となったが・・・・・・。そのような半世紀の激動の歴史を詠み留めたのである。 |
般若心経にも繰り返し唱えられる「娑婆詞」。梵語であり、その意味は「功徳あれ」「成就あれ」という祈りの真言である。その祈りを聞きつけたように色鳥が飛来する。「そはかそはか」のリフレインが何とも心地良い。同時出句の〈海の日を竜宮城にゐる思ひ〉も心和む。 |
蝋燭の火の熱で回る走馬灯は風情のあるものであった。回転する絵に、様々な思い出などが想起するのである。「父だけに見ゆる」は、父にしか分からない思い出、あの世まで黙して持ってゆく思い出、ということであろう。もちろん一緒に見ている作者にもそのような思い出があるのである。父子こもごもの思いの籠る走馬灯である。 |
写生句の良さを思う。作者の心象などは一言も語ってはいない。一本の商店街を踊りの列が行き、同じ道を戻ってくる。ありありと生活感の満ちた小さな商店街の様子が目に浮かぶのである。駄菓子屋、八百屋、その誰彼の顔なども・・・・・・。読者各々の心の中の商店街に響き合うのだ。 |
その他印象深かった句を次に
私は万年筆派でモンブランを二本机上に置いている。古歌に「風の音にも驚かれぬる」と秋の到来を知る微細な感覚が詠まれているが、この句は秋到来を知る現代感覚である。ボールペンでもこんなことがありそうだ。同時出句の〈路地ごとに違ふ欠け方大花火〉は高層化した都会の路地の様子が如実である。また〈子規球場鋭角に飛ぶ蜻蛉かな〉も「鋭角に飛ぶ」が発見で、各々いい感覚を発揮している。 |
いかにも麦酒好きの人の句。「次々開けよ」の命令形が楽しい。解放された夏期休暇の気のおけない仲間か家族かとの団欒の様子が目に浮かぶ。同時出句の〈一センチ短めに髪切りて夏〉は男の私には解らないが、女性にとっては髪の一センチは大きな変化なのであろう。二句共人事的な句で、作者の個性がはっきりと浮き立つ。 |
光君はもちろん光源氏のこと。源氏物語は長編なので一夏で終るわけにはいかず、今年の夏も続きが始まっているのであろう。「再びまみゆ」が眼目で、物語の人物ではあるが、あたかも実在の人物に再会するような表現に持ち込んだのが手柄である。同時出句の〈文を待つだけの一日や雨の月〉も、現代というよりも古典の世界へ自分を置いたような典雅な雰囲気である。〈アイライン上手に引きて帰省かな〉は都会生活に少し馴れてきた女性の心象の面白さ。 |
「極楽往生院」――京都大原の三千院の本堂のことであろう。すぐ立ち上がれるような姿勢の阿弥陀三尊が迎えてくれる。「極楽」はこの世を去って極楽に生まれることをいうが、この清浄の地に色鳥が色を散らせているというのであるから何とも華麗である。引き算ではなく、足し算で成功した句である。 |
二階の窓を開放して祭囃を演奏する。秩父夜祭や祇園祭などで私も何度か目にしている。確かに句のように軒を借りている雀達には迷惑な一日である。そこを見逃していないのが非凡な目である。同時出句の〈海空のあをのあはひの立ち泳ぎ〉の「あをのあはひ」の措辞、〈虫干の一日ラジオはテロの報〉の「テロの報」の斡旋、と各々の独自の視点を称えたい。 |
なるほど「麦埃」と思う。麦を収穫し、麦打ちをした時に出る埃である。上州は麦の生産地。夕暮まで埃まみれに働いているのである。固有名詞の斡旋もいいし、一日の労働を格調高く謳い上げている。同時出句の〈父母は同じふるさと蛍草〉〈虫干や一葉きりの父の文〉も父母を偲んだ品の良い抒情句である。 |
向日葵は子供の好む花だ。花が丸くて人の顔に見えるところが親しまれる要因であろうか。その向日葵の花の中に吾子の顔がまぎれている、というところが童話的な発想である。同時出句の〈天牛の触角ゆるき弧を描く〉は天牛をよく観察した労作で「ゆるき弧」がいい。〈蟬の声おはりは少し投げやりに〉は観察の上に「投げやり」という主観を加えたところが味わい。 |
西瓜のような大きなものも大仏の前に置かれたら、供花に混じるほどの存在でしかないのである。それだけ大仏の大きさが実感できるし、供花の束も大きいのだ。比較する二つの物の取り合せの面白さである。 |
私にも覚えがあるが、気候の変動もあり、常に危険な登山には服装にこだわるものである。妻が「もう捨てたら」と言ってもそうはいかない。繕って着続けるのである。そんな山男の心情が籠った、実感のある句である。 |
伊那男俳句 自句自解(11)
絵日傘に入りたる母の小ささよ 母は大正11年、駒ケ根市の古い商家の生まれである。戦後は没落したが、母が育った頃は番頭さん女中さんが大勢いて、学校の送迎も女中さんが付いたという。当時は町から何人も行かない伊那高女にも通った。田舎のお嬢さんであった。この町よりもっと山奥の出身で、医師になった父と見合い結婚し、戦後は母の親戚筋の土地の割譲を受けて耳鼻咽喉科医院の裏方を切り盛りし、私達子供3人を育ててくれた。母は私から見ても綺麗な人であった。兄と較べて出来が悪く、奇矯な行動もある私のことをいつも心配していたようだ。思えば読書好きな私のために町にある二つの書店から欲しい本を付けで持ち帰れるようにしてくれたのは、今の私の基盤を作ってくれたように思う。反対に就職後も頼めば遊興費まで送ってくれたのは私を駄目な息子にしてしまったが・・・・・・。帰省して東京へ戻るときはいいと言っても、その姿が小さくなって見えなくなるまで見送ってくれた。 月山の胎内に入る茸採り
盤水先生の第二の故郷ともいえる出羽三山周辺に、最終的には三基の句碑が建つのだが、その間何度となく羽黒を訪ねた。常宿は手向集落の三光院である。芭蕉主従は『おくのほそ道』の旅で羽黒に8日ほど逗留しているが、宿の前の道を幾度も歩いたことは間違いなく、感慨深いものがあった。月山は天照大神の弟の月読命を祀る山である。夜―冥界―を司る神である。月山に登拝して死の世界を体験し、湯殿山に下りて再生を果たすのである。周辺は月山筍を始めとする山菜の宝庫で、秋も茸が豊富である。初めて訪ねたこの旅は丁度茸の最盛期であったようで、往く道々でそれらしい姿を見掛けた。各々が秘密の場所へひっそりと隠れるように岨道に消えるのである。その日の句会でこの句を出した。後日どの新聞であったか、先生が三山のエッセイを書いて、私の句を添えてくれた。まだ俳号が本名「正徳」の時代であった。「胎内に入る」は神の山が私に授けてくれた措辞だ。 |
7月 7月31日(日) 6時起き、今回は二日酔いなし! 快晴。4回来ているのに初めてホテルの温泉に入る。快適。ゆっくり朝食。10時に出て、隣の懐古園を丁寧に歩き、千曲川を眼下の四阿で1時間ほどうとうと。これほど気持ちの良い川風は久々。蝉の声、虫の声。12時、銀漢の仲間と合流し、「草笛」で胡桃蕎麦。13時、「ベルウィンこもろ」にて句会。筑紫磐井、中西夕紀さんと。終って「銀漢北軽井沢句会」の車2台の迎えをいただき、嬬恋村、柴山つぐ子さんの山荘。武田編集長夫妻と合流。北軽句会の皆さんの大歓待を受け、山盛りの御馳走でガーデンパーティー、あと慌ただしく五句出し句会。24人。軽井沢駅へ送っていただき、帰京。北軽句会の皆さんの至れり尽せりの接待に感謝。皆さん、疲れが出ませんように。 8月 8月1日(月) 彗星集がまだ。選句済ませる。発行所「かさゞぎ俳句勉強会」、角川源義と。あと13人。政三さんが気仙沼の魚加工品と酒。 8月2日(火) 9月号の原稿全部終る。店、開店以来初めての出来事! 20時過まで1人の客もなし。20時半閉める。頭を冷やさないといけないので近隣の親しい店、A店、B店、C店を梯子する。それにしても1人の客も来なかったのは14年の歴史で初めて。ああ……。 8月3日(水) 「神田古本まつり俳句大会」の選句。400句弱から11句選ぶ。選評800字。店、「宙句会」あと10人。「きさらぎ句会」あと5人。22時半、閉めて帰宅すると、桃子夫婦が起きていて1時間ほど一緒に飲む。 8月4日(木) 午前中、整体。左肩ほぐす。「草樹」元代表・小山徳夫さん依頼の句集『春港』の鑑賞に取り掛かる。それにしてもこの暑さ、ついつい昼寝など。 8月5日(金) 小山さん句集評、字数間違って大幅書き直し。店、群馬の鈴木踏青子先生訪ねて下さる。店、客少なかったのでゆっくり話。21時過、「大倉句会」あとの21人雪崩れ込む。 8月6日(土) 10時、運営委員会。昼、久々、「いもや」の海老定食。13時、「麹町区民館」にて「銀漢本部句会」。夏休み突入でいつもより少なく45人。あと中華料理店10数名で暑気払い。 8月8日(月) 「信州伊那井月俳句大会」で1時間半の講演予定あり。さすがに準備が必要にて構想を考える。店は閑散。 8月9日(火) 東京、今年最高気温と。「あ・ん・ど・うクリニック」。3週間分の降圧剤もらう。店「火の会」7人。 8月12日(金) 「俳壇」10月号へエッセイ。「俳句年鑑」へ5句。一応店を開くがお盆休みで閑散。山形の菅原庄山子さんからだだ茶豆到来。初物。 8月13日(土) 10月号のエッセイを考えながらオリンピックのニュースなど見る。午後、久々、青山梅窓院の妻の墓参。蝉時雨。14時、新橋汐留口「十六夜句会」の吟行に招かれる。日本テレビを中心とした伊達藩邸跡地を巡る。46階の展望台からの俯瞰もいい。新橋ステーション跡。新橋の居酒屋にて句会と親睦会。大阪の辻本理恵さんも参加して12人の吟行。あと大野田さんと「信州伊那井月俳句大会」講演の画像について依頼。 8月14日(日) すっかり夏休みモード。中川さん来て、髪短めにカットしてもらう。エッセイ一本。桃子は宮沢りえさんの舞台へ。莉子は「Hey!Sey!JUMP」のコンサートにて、男の子二人と留守番。17時から1人で宴会スタート。 8月15日(月) 9時、羽田空港ターミナル。「つるとんたん」のうどんの朝食。11時45分のガルーダ・インドネシア航空搭乗。桃子一家と7人で。雲の峰を眼下にシャンパン。昼食はアスパラガスのスープ、ステーキ、赤ワイン、チーズ。映画「ヒマラヤ」を見る。ジャカルタ スカルノ ハッタ国際空港でトランジット2時間。バリ着正午前。クタの「ラマ ビーチ リゾート アンド ヴィラズ」に入る。三室取り、桃子夫妻の部屋はプール付き。18年振りのバリ島。 8月16日(火) 時差1時間。皆寝ている筈にて八時、1人で朝食へ。レストランにいるだけで楽しい。バリのコーヒー佳し。プールサイドでのんびり。案内人のカトゥー来て、今後の打合せ。海辺の散策。家族は三つ編やネイル。昼食は町のレストランへ。サテ、カルボナーラなどでビール、ワイン。戻って寝る。夜、中華海鮮レストラン。烏賊、海老の炒め物など。ナシゴレンうまい。 8月17日(水) インドネシアの独立記念日。カトゥーの子供の熱が下がらないと、替わりに昨日一緒に夕食を食べたニョマンが運転、ウブドへ。途中、バロンダンス劇場に寄る。安易に笑いを取ろうとして駄目。ウブドのサレンアグン宮殿、市場など見て稲田の見えるレストランにて昼食。タマン・アユン寺院へ。夜、「魚SUSHI・TEI」日本と変わらぬレベルの和食。 8月18日(木) NHKのテレビへようやくたどりつく。「とと姉ちゃん」。9時からゆっくり朝食。11時、宮澤と2人、ニョマンの案内でタナロット寺院へ。海の中の寺院にてはだしで潮を渡り、聖水を受ける。帰路、チャングーという稲作の田園の町を通る。欧州人のリゾートになっている。戻ってプールサイドで10月号の選句。夜、成城仲間の新関さん一家4人合流。「フーラマ」にて食事。唐辛子の効いた中華料理で私は駄目。 8月19日(金) 2家族は象・イルカと遊びに。私はホテルに残る。寝たり起きたり選句をしたり。18時過ぎ、ホテルの裏のクタの海の入日を見に。19時、「ポピーズ バリ」。18年前に来た有名店。まずまず。 8月20日(土) 「とと姉ちゃん」見る。八時半、朝食。「カルフール」に買物へ。戻ってプールサイド。16時発、ウルワツの岬へ。断崖のパワースポット。夕暮のケチャダンスを見学。戻って数日前に行った海鮮中華店。島の焼酎アラック。 8月21日(日) 5時起き、選句、エッセイ。7時、朝食さっと食べて出発。サヌールから船。小1時間のレンボガン島へ。シュノーケルを楽しんでから上陸。前面にバリ本島を見てビール。数時間ぼんやり、うとうと。16時、船でサヌールへ戻ると海岸は大凧コンテスト真只中。夕食は、「魚SUSHI・TEI」へ。2回目。設備のいい大レストランで味もいい。鰻重、カツ丼、海老天、うどん、寿司、その他。日本酒は随分高いので注文せず。あとは日本の居酒屋並の価格。 8月22日(月) 9時前、朝食に行くと、子供達はもうプールに入っている。今日は選句選評などをやらねば……。夕方、ジンバランの海辺のバーベキューへ。海老、烏賊、魚など。このあたりも18年前の記憶にあるが、様変りに展けている。今日で新関一家4人帰国。我々はあと1日。日本は台風直撃で大変と。 8月23日(火)、24日(水) 10月号の原稿書き続ける。16時、チェックアウト。18時、デンパサール国際空港発、ジャカルタ経由で羽田へ向う。ジャカルタで2時間半待ちは辛いところ。夜食は天ぷらうどん、朝は西京焼などの和食9時半、羽田着(40分遅れ)。午後、店の点検。発行所へ選句稿届ける。 8月25日(木) 今日から店。常連の方々、カウンターに。奥、「東大学生俳句会」青木ともじ君他5人の句会。鈴木琢磨さん。菅原庄山子さんよりだだ茶豆沢山到来。 8月26日(金) 発行所「門」同人会へ貸出し。店、稲垣さんの句会五人。あと「金星句会」後の7人。水内慶太さんよりだだ茶豆沢山。 8月27日(土) 14時、日本橋「鮨の与志喜」にて「纏句会」。あと土瓶蒸、煮鰹、秋刀魚の塩焼、握りずし。酒は「磯自慢」。あと、「吉池」で干物仕入。店に納める。帰宅して桃子、孫と歓談、小酌。宮澤は日帰りで春日大社のシンポジウムのパネラー。 |