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4月号 2022年
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伊藤伊那男作品主宰の8句 今月の目次銀漢俳句会/2022/4月号
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句集『曉紅」平成五年作に「母五十年忌にてふるさとへ」の前書付きで〈母の忌の磐城は春の時雨空〉がある。その句から逆算すると母上が亡くなったのは昭和十八年前後、先生は二十五歳位で、当時船舶関係の軍属としてサイゴンに駐在していた頃と推定される。とすれば死に目には会っていないこととなる。利休忌であるから命日は旧暦二月二十八日。句は上五・中七・下五の終りを「き」の音で納めたのが特徴。特に最後の「花菜の黄(●黄に「・」つける)が秀逸である。 (平成二十一年作『凌雲』所収) |
彗星集 選評 伊藤伊那男伊藤伊那男・選屋根に雪家ごとにある物語 深津 博
晩学のおのれ励ます春立つ日 笠原 祐子
好日と大きく記す初日記 中込 精二
貼り薬跡のかゆくて冬終る 小野寺清人
楪や終の住処となりし町 山元 正規
恵方ならん一帆のめざす沖晴れて 伊藤 庄平
日向ぼこ顔の大きくなつてゐし 清水 史恵
寒卵区間記録にあと一個 久保園和美
次の間も餅の間となる昔かな 長井 哲
気流得し鳶のつがひや初御空 笠原 祐子
武甲嶺に一揆ありけり空つ風 夲庄 康代
針山へ寒の入り日の回りくる 三溝 恵子
ストーブの烏賊踊りだす五能線 橋野 幸彦
祠一つ灯る山路を恵方とす 伊藤 庄平
鎌倉の谷戸抜けてくる虎落笛 唐沢 静男
鞠始雅ことばの空高く 清水佳壽美
寒卵どんぶり飯を覆ひけり 宮本起代子
どか雪も災禍を埋むには足らず 宮内 孝子
雪搔きの自づと決まる境界線 渡辺 志水
社より看的の声弓始 朽木 直
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伊藤伊那男・選
私も参加した年末の煤逃吟行会の佳什である。禪次句は説教節の小栗判官再生の秘湯、熊野の湯の峰温泉の嘱目である。普通は「蘇る・甦る」と表記するのだが、この句は故事を踏まえて「黄泉返る」としたのが眼目で、この言葉遣いであの長い物語が全て語り尽くされる。まさに言霊の籠った一句である。政三句は具体的に参宮前の湯垢離を詠み、そのあと雪に遭遇したことを「雪垢離」と捉えたところが巧み。洋征句は「神幸(さき)はへる」が眼目。神々の存在がひしひしと感じられる熊野路の数え日の旅への感謝が籠ったいい挨拶句である。吟行は大事だなと思う。それも一人の旅であったらこれらの句は生まれてこなかったのではないかと思う。緊張感を持った座があってこそ、である。 |
正岡子規の〈いくたびも雪の深さを尋ねけり〉を踏まえた句である。病臥の子規には庭に降る雪は見えても、どれ位積もったのかは解らない。母八重や妹律が来るたびに尋ねるのである。その悲しさを作者は思うのである。同時出句の〈綿虫を追へば傾く深大寺〉もいい。深大寺には石田波郷の墓がある。波郷には〈綿虫やそこは屍の出てゆく門〉〈いつも来る綿虫のころ深大寺〉があった。これを踏まえて「傾く深大寺」と独自の視点を加えた妙味である。以上の二句、俳句は年季が大事、年季が磨いた句だな、と思う。 |
三十三間堂という固有名詞を最大限に使い切った句である。平清盛が後白河法皇に献上した法堂で運慶指揮の千体仏が並ぶ。その長い堂を咳一つが貫く。冬の静寂さが具体的である。千(・)体仏と咳一(・)つの対比がいい。加えてここは江戸時代に通し矢で有名であった。「つらぬく」にはその故事も含まれている筈であり、地名歳時記の第一等の例句として載せていい名作である。 |
「祖母と仲良し」が何ともいい。こういう捉え方を見ると、俳句という短い文芸にも人柄や個性が滲み出るものだな、と思う。三歩歩いたら全部忘れるという鶏だが、餌をくれたり、優しいお婆ちゃんのことはちゃんと覚えているのである。温かな句だと思う。類句も無い。 |
「神のもの」の打出しがいい。普段は農業を営んでいる村人が年に一度の神楽を演じる。その神になるための衣装や面を包んだ風呂敷である。控室で開き、いよいよ身に纏う場面であろう。的確で簡潔な把握のできた句だ。 |
昔、高齢の句友が「遠くの親戚より近くの句友」と言った。俳句仲間は句会の出欠や俳句の内容から相手の事が解り合っているので体調を崩した時など、逸早く声を掛けてくれて頼りになる関係だという。本当に俳句からその人の来歴や暮しぶり、思想までが解ってくるものである。句を発表し合うことが励み。そんなことを感じた句だ。 |
鰤は関東では、わかし・いなだ・わらさ・ぶり、関西では、つばす・はまち・めじろ・ぶり、と成長につれて名前が変わる「出世魚」である。六㎏位からが鰤である。冬が旬の魚だが、寒中の鰤が最も珍重される。その最後に水揚げされて糶られる。その過程を「出世の果ての糶舞台」と持ってきたのが洒落た発想、巧みな構成である。 |
「大根焚」は京都鳴滝の了徳寺の冬の行事。村人が親鸞上人に差し上げた故事に発するという。親鸞を慕って当日は老若男女が集い、煮大根を頂く。熱い椀を抱えている善男善女の様子を「和を以て」と打出し、「ふうふう」と諧謔を入れる。この運びは自由闊達、融通無碍。 |
搗きたての柔らかな餅がだんだん固まって座りがよくなっていく。その経過を重心が馴染んできた、と独自の表現で捉えたのは手柄であった。時と共に威厳が出てきている様子の描写が上手い。 |
小野小町が深草少将ほか男達を惑わせたのは何歳位の頃のことか……。そんな発想が面白い。では卒塔婆小町になったのは何歳位からなのか?そんなことを思っていると次の札を取られてしまいそうだ。 |
同時出句に〈母逝けど軒端に集ふ寒雀〉〈寒雀小枝の撓ふ重さかな〉〈群れなすもなさざるもゐて寒雀〉があった。寒中は食料が乏しいせいか雀は人家の近くに来るので目立つものである。寒さの為か瘦せて見えたりするし、防寒のため羽毛を膨らませて「ふくら雀」になったりする。冒頭の句を含めた連作はそうした雀の様子をよく捉えているようだ。中に母上が亡くなったことも織り交ぜて人生の一齣を詠み切っている。 |
私が東京に出てきた五十年前には一つの駅の周辺に二つ三つの銭湯があったものだが、今は捜すことが難しい。籐や竹で編んだ脱衣籠があったものだ。たまに早い時間に行くと、それまでは届かなかった日差しが脱衣籠にまで伸びている。そんなところに目が行ったところがいい。籐籠という「物」に焦点を絞り、「艶」を発見した丁寧な詠みぶりが成功の秘訣である。 |
令和二年の「簡易生命表」によると日本人の男性の平均寿命は八一・六四歳、女性は八七・七四歳。女性の方が六歳ほど長寿という結果である。そうであれば、まさにこの句は理論的である。七十代も半ばの男は怯えながら暮しているのである。 |
人はどうしても易きに行ってしまうもので、炬燵があれば潜ってしまう。炬燵の上に蜜柑があれば食べる。そのような炬燵のことを「罠のごとく」と捉えたのは類例を知らない、独創的な発想であった。 |
私は年賀状を出すことを止めてしまったが、二十代の初め以来一度も会わなかった方々とも遣り取りがあった。まさに生存確認といったところだ。五十年間延々とそれが続いている、と淡々と詠んでいるのが面白い。 |
〈咳をしても一人 尾崎放哉〉がある。印象に残る表現だが、私はこの形態を俳句と呼んで良いのかというと否定派である。短詩としての斬新さはあるが、これが俳句として通用するのは困る。俳句を破壊してしまう。それはさておき、掲句はいい。本歌取りのうまさである。 |
昨今の気象の変動を見ると積雪、地吹雪は只ならぬ状況である。交通が遮断されることも度々だ。身内を訪ねようとしたのであろうか、旅の荷を用意したものの出掛けられずにいる雰囲気が「遠し」の表現から伝わってくる。 |
「鐘の中」は除夜の鐘が鳴っている間、ということであろう。この一年の間のさまざまの事が甦る。濃密な思いも「鐘の中」と大胆に省略したのが手柄である。 |
JR青梅線であろう。御嶽駅、奥多摩駅辺りで、地元産の山葵を売っている。丸ごと葉が付いている。この葉が大事で浸し物にするといい。動詞を使わないで、東京という大きな街から奥多摩の山葵まで、思い切り焦点を絞り込んだ構図の面白さである。 |
炬燵の句として珍しい詠み方の句だ。私などは家族の多かった子供時代を懐かしく思い出す。四人では収まらないので一辺に二人位が入る。友人などが交われば大変な混雑である。「ねぢ込んでみる」が楽しい表現であった。 |
実は私も耳学問である。知的欲求は強いけれど、世の学者のように積み上げていく学究生活ができたかと自分に問うと無理である。「憚らず」と言い切ったのがいい。 |
「鰥(やもめ)」は不思議な字で、私は語源をまだ知らない。ともかく「寡婦」のことを言う。妻に死なれた男は本来は「男鰥」である。ともかく妻に先立たれた男が居酒屋に来ていて、どうやらまだ話をしていないが、同じ鰥の雰囲気がある。「鰥夫の匂」が何とも悲しくていい。私も鰥。 |
伊那男俳句 自句自解(75) 叡山の風呼び寄する白扇子
若い頃過した京都の夏はつくづく暑かった。信州で育った私には学生時代の東京の夏も暑かったが、あたかも擂鉢の底のような地形の京都は更に身体に粘り付くような暑さであった。社会人として赴任して背広とネクタイで身を固めているのであるから尚更である。当時の独身寮には各部屋のクーラーは無かったし、会社の営業車のパブリカにもまだカークーラーは付いていなかった。たまに御池通りの並木の木陰に車を止めて転た寝をしたが、起きると背広ごと汗まみれになっていた。祇園祭に父母が遊びに来たことがあるが、宵宮の人混みと最高潮の暑さに心底驚いていたようで、ほうほうの態で帰っていった。京都は扇子の似合う町である。創業は江戸時代というような扇子の専門店が幾つもある。京の人が鴨川の川床で扇子を使っている姿などを垣間見ると、歴史が磨いた粋というものがあるな、と思う。京都の鬼門を守る比叡山の涼風を招き寄せているようにも見えた。涅槃図に入りきれざる鳥のこゑ
もう二十年ほど前の春耕の時代のこと、一泊二日の五十句鍛錬会を提案し、棚山波朗氏を頭に若手を集めて、武田禪次さんの世話であったと思うが、群馬県の三国峠の下の法師温泉の一軒宿「長寿館」に集合した。確か三月中旬位で宿は厚い雪の中にあり、完全な缶詰状態であった。席題を五つ出して一時間後に出句するなどということを夜中まで続けた。春耕では席題句会の習慣がほとんど無かったので皆呻吟した。私は題が出ると温泉に入り、句を思い付くとメモ用紙に書き付けた。そんなわけで七、八回入浴したのであった。杉阪大和さんは俳句を始めて日の浅いこともあって夜中に布団を被って懐中電灯を灯して作句したという。松川洋酔さんは翌日上野に戻ったとき「風呂に入りたい」と言った。作句に追われて一度も温泉に入らなかったようだ。上野の山の露店と居酒屋とで二回句会をして五十句に達した。掲出句はその五十句の中で私としては会心の作がこの句であった。 |
12月 12月29日(水) 9時「高木珈琲」。京阪電鉄で浜大津。大津京跡を巡り近江神宮拝す。義仲寺久々の訪問。石山寺を訪ね、長浜へ。2日間の大雪のあと。5時「住茂登」(鴨料理)、鮒鮓、琵琶鱒、似鯉の刺身、鴨の抱身の照焼、鍋、おじや。酒は七本槍、松の司。ホテルイエス長濱泊。 12月30日(木) 10時半「翼果楼」にて鯖そうめん、小鮎煮で七本槍の朝食。さて竹生島を訪ねようと船着場に行くと一番船は出たが、風の為着岸できず戻り、本日欠航と。帰ることにする。ふと思い立って静岡に下車し、青葉横丁の静岡おでんの店に入る。10時過ぎ帰宅。 12月31日(金) 10時半、1週間の郵便の山! 数日前からスキーに行っていた家族戻り、近所のN家で四家族の忘年会。カラスミ、とろろ汁など持参。鮑用意してあり、刺身とバターソテーを担当。晦日蕎麦のあと年明けの挨拶をして一足先に帰宅。 令和4年 1月 1月1日(土) 快晴。白味噌雑煮用意。昼、揃ってお節で新年の祝。昼寝。夜、河豚鍋、おじや、ひれ酒。 1月2日(日) 伶君、ライオンキングの昼公演。澄まし汁の雑煮。銀漢新年俳句大会の選句。自句自解他エッセイ。山下美佐さんの姉上、田中敦子さんの『父のおじさん』を読初めとす。カラスミ干し上がる。夕食、タラバ蟹、鮪山かけ。 1月3日(月) 到来のズワイ蟹を処理。久々駅前に買物。叩きごぼうを作る。夕方杏一家来て新年会。カラスミ新物を披露。鮪。 1月4日(火) 諸用で発行所。馴染みの店2軒ほど小酌して挨拶。 1月5日(水) ヘアメイクの中川さん来てくれて短髪に。俳人協会賞候補7句集を読み始める。蒟蒻の炒め煮。白菜と油揚げの焚合せ。鮪のヅケのステーキ。 1月6日(木) 同人最長老の梅沢フミ様逝去の報。大晦日、百五歳と。合掌。雪。十六夜句会に招かれていたが、雪で中止と。長芋、下仁田葱のバターソテーなどの夕食。 1月7日(金) 12時、浅草。伊那北会。浅草七福神詣(九ヶ所あり)。雲一つない雪晴れ。浅草寺大黒天、浅草神社恵比寿、待乳山聖天の毘沙門天、今戸神社福禄寿、橋場不動の布袋、石浜神社の寿老人までを廻り、ついつい立飲み店。吉原神社の弁財天までとする。矢先稲荷の福禄寿は省く。雷門横の「常盤食堂」で打上げ。鰺フライ、カラスミの西京漬など、旨い! 1月8日(土) 銀漢2月号の校正。片山一行氏句集序文の構想。少々2日酔い。湯豆腐の夕食。 1月10日(月) 終日、銀漢3月号の選句。夜、筍芋と高野豆腐の焚合せ。牛ステーキ久々焼く。ハムステーキも。 1月11日(火) 発行所にて火の会11人。 1月12日(水) 農家久々訪ね野菜買う。赤大根と塩昆布の浅漬け。ホーレン草、菜花など下処理。三浦大根の葉、炒める。あ・ん・ど・うクリニック。あと久々オオゼキで海鼠、鰯など。 1月15日(土) 有明の劇団四季劇場。ライオンキングの昼の部。伶君出演を久々観劇。亡妻の妹夫妻と。5回目の観劇か。夜、手巻き寿司、キャベツとベーコンのソテー。 1月17日(月) 俳人協会賞選考、2回目の読み込み。 1月19日(水) 5時、日暮里「夕焼け酒場」。高校同期「三水会」再開。6人集まる。ほとんどが銀漢亭閉店以来の顔合わせ。 1月20日(木) 俳人協会賞最終候補作品7編の読み込み、分析を進める。俳句人生が懸っている句集にて悩ましい。 1月21日(金) 亡妻光代さんの17回目の忌日。久女忌と同じ。快晴。亡くなったのは雪の日であった。 1月22日(土) 伊那谷の従兄より寒餅、野沢菜、沢庵、スルメと人参の糀漬けなど到来す。3時より俳句文学館にて俳人協会賞選考委員会。中原道夫、大石悦子、西村和子さん。委員長は今瀬剛一氏。夜、杏一家来て、光代さんを偲ぶ会。昔のアルバムを持ち出して話尽きず。気仙沼から取り寄せた牡蠣。鮪など。 1月23日(日) 忘れない内にと、俳人協会賞選考経過を書く。1日がかり。俳人協会へ送る。 1月24日(月) 星雲集、同人集の選評。夜、鶏つくね鍋。 1月25日(火) 星雲集脱稿し、3月号の執筆終了。4句会ほどの選句。へとへと。夕食抜いて休む。 1月26日(水) 片山一行氏の句集序文書く。夜、蓮根の煮物、鶏鍋、生牡蠣など。 1月27日(木) 農家の野菜買いに。部屋の片付け、通信。銀漢俳句会総会用挨拶の文案。芽キャベツの卵とじなど。 1月28日(金) 銀漢賞、新年俳句大会受賞者への色紙、短冊、愛媛の「八木健のCATV俳句」へ色紙と句に纏わる話などを送る。計らずも書初めとなる。 1月29日(土) 書棚他、部屋の片付け。これでようやくロデオ(健康器具)に乗れそう。「俳句てふてふ」に連載エッセイ一本送る。 1月30日(日) 午前中に読書など。午後、発行所。新年の挨拶と俳句大会の選評などのビデオ撮り。森羽久衣、井蛙、一斗さん。終わって新世界飯店で小酌。 1月31日(月) 10時の新幹線にて浜松へ。快晴。富士山秀麗。昨夜、井蛙さんに話したら同行すると。駅ビルの石松餃子の昼食。浜松城址、引間城址(東照宮)、椿姫観音、秀忠公誕生の井戸他四時間ほど市中散策。田町の牡蠣店、駅ビルの立飲み店。同寿司店、ホテル前の居酒屋と飲み歩く。10時前就寝。 2月 2月1日(火) 9時半発、東海道線で掛川へ。丁度10時過ぎのバスがあり、戦国の要害、今川・武田・徳川が三つ巴で戦った高天神城跡を巡る。茶畑の中。もう梅が咲いている。昼過ぎ戻り、掛川城へ。市民の手で再建した木造。見事。富士山、南アルプスも見える。御殿、報徳社。今川時代の古城など巡る。開いている飲食店少なく、或る店では東京から来たと言うと入店を断られる。諦めて東京に戻り駅地下で小酌。 2月2日(水) 銀漢3月号の校正作業。雑用多々。3日前のロデオのせいか、城歩きのせいか、左足の付け根が痛く足を引き摺る。 2月3日(木) 銀漢の文章類執筆。「NHK俳句」一句旬菜の原稿を書き始める。午後、マッサージの加々美さんを5年振りに訪ね、足を診てもらう。やはり1時間のロデオ、浜松の二万歩の散歩が重なったためか、と。夕食は孫のキンパ、ミートローフ。豆撒き。 2月5日(土) 脚の筋肉かなり改善する。「NHK俳句」の原稿、魚六種についてのエッセイと料理、だいたい纏める。湯豆腐、海鞘、コノワタ(年末の旅で仕入れたもの)。 |
△オルレア オルレアは清楚でナチュラルな雰囲気が魅力のセリ科の草花。白くレースで編んだような繊細な花は、同じセリ科のコリアンダーの花に似ています。 |