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東海道新幹線が静岡県に入ると、車窓に端正に刈り込まれた茶畑が展開する。但しその歴史はそう古いことではない。幕末江戸を開城した徳川慶喜は静岡(駿府)に蟄居していたが、後を追って多くの幕臣が静岡に入った。とてもその人数を養うことはできず、色々な殖産を探ったのだが、その一つが茶の栽培であった。それはさておき、新茶が出るのは梅雨に入るまでの束の間。「笠雲」の斡旋でその頃の気象状況が伝わってくるのである。(平成十一年作『山海抄』所収) |
彗星集 選評 伊藤伊那男伊藤伊那男・選渇筆の軸に声あり臥龍梅 本庄 康代
足袋つぎし久女の針も納めしや 坂下 昭
曲るたび電車はみ出す春の海 曽谷 晴子
缶切りの行方知れずや多喜二の忌 本庄 康代
将門の終の猿島の野火高し 多田 美記
お松明身内を火の粉吹く思ひ 笠原 祐子
紐一本手古摺る着付久女忌や 川島 紬
じやんけんのグーは三寒パー四温 西田 鏡子
剝がしたきバウムクーヘン春の雪 今井 麦
白息の綺羅を頻りに雲母坂 中島 凌雲
梅咲くと誘ひの声が垣越しに 秋津 結
千両の万両よりも殖え易く 小泉 良子
筑波東風浦舟の帆を孕ませて 中村 湖童
磯城島の宮居いづこも梅の花 武田 禪次
ドアノブに纏ふ余寒をまはしけり 保田 貴子
初花や御籤捲かれしところより 堀切 克洋
福耳のやうな春子をひと口に 伊藤 庄平
上達のままならずゐて針供養 山田 茜
揚綱の撓みも凧の高さかな 戸矢 一斗
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伊藤伊那男・選
「初」に山を付ければ何でも季語になるわけではない。「初富士」「初筑波」「初比叡」の三つだと思っていた方が潔い。この句は京都の町中から手を合わせているようだ。眼目は「みえぬ灯に」。延暦寺根本中堂には不滅の法燈がある。開山以来絶えたことの無い灯火といわれる。一説には織田信長の焼討の折消えたが、以前に山形県の山寺に分けておいた灯火を戻して繫がっているという。町からは見えぬこの火を詠んだのが手柄。また伝教大師最澄の教えである「一隅を照らす」にも通じる、清浄感の漂う句となった |
まだ咲いているかも解らない梅を求めて散策する一団。「みな良き顔をしてゐたる」に春を探す期待や、ささやかながら至福の楽しみが描かれている。同時出句の〈心配になるほど膨れ寒雀〉も、おかしみを湛えながらも対象物の実態をよく把握している。 |
気仙沼出身の作者であることを思うと、あの三月十一日の東日本大震災の惨禍の回想ではないかと思う。小学校に入学する子の祝に注文しておいたランドセルがあの災害の後に届いたのであろう。誰にどんな運命が襲ったのかは解らないが「故人予約」の言葉は重みがある。今年も被災の地に花を開く水仙が悲しい。 |
現実の風景なのか、幻視の世界の風景なのか、不思議な句である。「花冷えの世(・)」とあるので、根の国への道、三途の川の手前から現世に戻ったということであるかもしれない。濁世とはいえ、桜の咲く現世には楽しみも多い。花冷えもまた良いではないか。 |
「一辺のみ」で一人暮しであることが解る実に上手い表現の句である。俳句はこまごま説明をしないで、一語で読み手を理解させることが要諦で、そこに腐心するのだが、この句は一つの手本となる表現がされていると思う。「春炬燵」の温か味の取合せもいい。 |
「寺請証文」の季語を使った句を初めて目にした。「踏絵」の副季語で、寺がキリシタン信徒ではなく檀徒であることを証明させた制度のことを言う。本人の署名が残っていたのであろうか。女の崩し書きの字の着目が手柄。 |
三代か、あるいは四代か、一族打ち揃っての記念写真であるが、その並び方がまるで家系図のようだ、というのが独自の発想で斬新である。この発見が勝負所、勘所である。「家系図のやうに並んで」「家系図のままに並んで」「家系図の同じ並びに」……まあ、原句のままがいいかな。 |
俳句の技法には様々あるが、この作者は欲張らずに淡々と日常を詠むところに持ち味があるようだ。力を入れず、目の届く範囲を穏やかに詠む。「遠くまで行かずとも佳き」の静けさと充足感がいい。 |
いずれも「春の風邪」の本意をうまく捉えている。冬の風邪と違い深刻さが薄く、のどかな感じがある。また、うっかり者の雰囲気もある。桐人句は年のせいかもしれないとやや自虐的な詠み方。紬句は割合元気なのに寝ていることの口惜しさ。飛露句はこの際勝手気儘に過ごそうという奔放なおかしさ。各々持ち味を発揮した力作。 |
「綾取り」は歳時記によって立項されていたり、しなかったりする。久女忌は一月二十一日。私は芭蕉他誰もがその忌日を知っている人物以外の忌日句には別の季語が重なっても構わないと思っている。この句は様々に形を変えて結局は一本の紐となってしまう綾取りと久女忌の取合せが微妙な均衡を保っているようだ。天才的な句を次々と繰り出した久女のイメージと繫がるようだ。 |
招き猫が春を呼ぶ、としたところに意表を突く面白さ、新鮮さがある。幸せや財貨でないのがいい。詠み手を朗らかにさせてくれる句である。 |
その他印象深かった句を次に
私は起床と共に濃い緑茶を飲むのが日課だが、お茶パックに分包しているので、茶柱を久しく見ていない。たまに旅先の食堂などで見つけると嬉しいものだ。昔から茶柱は吉事の兆しとされている。茎の多い番茶が立ち易いようだ。この句は「二煎目」というところがいい。二番煎じという言葉があるように、眉唾物のようなおかしさを伴っている。ともかくもうすぐ春。ほのかな俳諧味がいい。同時出句の〈春めくや色鉛筆の削り屑〉も「春めくや」の季語を生かした色彩感のある秀逸。 |
高層ビルが林立している今では実感が無いが、江戸時代は富士山はもちろ んだが、筑波山も町のどこからも大きく見えたという。深田久弥の日本百名山の中で標高の一番低い山だが、江戸庶民には親しみのある山で、その歴史を遡ってみると実感が深い。もちろん柴又辺りの土堤から見た今の実景としてもいい。同時出句の〈割に合はぬ長子と生れ冬田打つ〉も実感がある。中村草田男の〈 |
「百度石」は心願成就のために、社寺の境内の標識の石を百度巡ること。時代劇などで見る。今やそうした信仰も廃れ、踏み固められていた道や石の周りも草叢になっているのであろう。時代の変遷と、芽吹きの力を合わせて読後の感慨が深い。同時出句の〈算盤も枡も現役種物屋〉も、今もある古い町の古い商家。「種物屋」の季語が効いた。 |
雪国の迎春の景が的確である。有馬朗人の〈光堂より一筋の雪解水〉と同じような新鮮な感覚がある。庇から落ち続ける雪解雫を避けながら受ける護符。雪から解放された人々の喜びが伝わってくる。 |
俳句は季節を先取りして詠む――という人もいる。春隣とか、夜の秋とかはそんな気持が出た季語なのであろう。探梅もそうで、冬なのにどこかに咲いていないだろうかと探し廻る心である。この句はそれにしてもあまりにも早すぎたか、今年もまた……と逸る心の出ている句だ。 |
私ごとだが受験で一番厳しかったのは高校受験ではなかったかと思う。ともかく算数は植木算位で挫折しているので算数の試験では頭の中が白くなった記憶がある。大学受験は文科系数科目であるからむしろ楽であった。この句の秒針の音は脈拍とか、動悸とか、絶望感とかそんな記憶を蘇らせる。もう五十年以上前のことなのに。同時出句の〈日脚伸ぶ吾子の帰りもさらに伸ぶ〉も面白い構成だ。 |
梅の花は「花の兄」とも呼ばれ、桜に先駆けて咲く花である。平安初期までは中国文化の影響もあり、桜よりも梅が珍重されていた。この句の簪ならやはり紅梅の方が相応しそうだ。『源氏物語』にも禁苑の庭木として紅梅が描かれている。女性文芸の系譜の句である。 |
餅を焼く時は目が離せないので一点を見詰めていて、あれこれ考えることがある。あの時あの選択でよかったのかどうかなどと考えていて、結局焦がしてしまった、というところであろう。そんな様子が面白く捉えられている。 |
山そのものを大きな水琴窟と見立てた壮大な比喩の句である。この発想は多分類例が無く、手柄と言ってよかろう。俳句は人が見逃していた発見と発想が一番大事なこと。 |
春炬燵はただ寒さを凌ぐばかりではなく、心の弾みと安らぎもあるようだ。お伽話か思い出話か、尽きることが無い。春炬燵だからこその気分の出ている句だ。同時出句の〈時を積むやうに降るなり今日の雪〉も感慨深い仕上 |
正月に忙しかった女性を、一段落着いた一月十五日に労るのが「女正月」。正月の過ごし方や男女平等化などで消滅していく行事の一つとなった。この句はその日の男達の控え目な過ごし方を捉えた俳諧味の漂う句である。なお「めしょうがつ」と詠む人がいるが、この句のように上五に置いて「おんなしょうがつ」と詠みたい。 |
伊那男俳句 自句自解(76) 鳴く前の喉ふるはせて雨蛙
子供は残酷なもので、雨蛙を摑まえて、麦の茎で尻から息を吹き込んで腹を膨らませて遊んだものである。お玉杓子も蛙も身近な生き物であった。ただし牛蛙のような大物となると恐くて手が出せないから、弱いもの苛めであった。ともかくそのような生活の中で蛙の生態は見ていたことになる。この句はそうした思い出の回想句である。よく見ると蛙はいきなり鳴くのではなく、それなりの準備をしているのだ。一瞬のことであるが、幽かに喉を震わせるので「あっ鳴くな」と解るのである。と、今まことしやかに解説したのだが、思い出は混沌としていて、もしかしたら見てきたような嘘、というか思い込みであるのかもしれない。だが、きっとそうだと思わせる力は持っている句だと思う。一物仕立ての句というものは一つの対象物を十七音全部を使って一気に詠み下すので、信憑性が出てくるものである。実態の程は定かではないが、まずまずの句に成ったのである。 うたかたの世の片隅の缶ビール
七十二歳になるまでに、どれ程のビールを飲んできたことか。外人は「とりあえず」という銘柄のビールがあると思い込んでいるそうだが、私もまずは「ビール!」から始まる。一番好きな酒は日本酒だが、若い頃はビールをチェイサー替りにして並行に飲んでいたものだ。この句は人生の酸いも甘いも知ってきた頃の句である。癌の経験もし、会社は倒産状態となり、ビールの苦みも身に沁みるようになってきたのである。会社の整理に入ったころは、内部状況を外部に漏洩する輩ももり、緊張の解けない日々が続いた。家に帰ってそんな愚痴をこぼすのが嫌で、帰宅前に一人で酒を飲んで気持を落着かせることもあった。「缶ビール」を配したのは創作であるが、「うたかたの世の片隅」は当時の吾が身の実感である。振り返るとバブル劇場の端役を演じていたのであり、四十代後半で、まだ子育ての義務もあり、倒産後の身の振り方など、心細い思いをしていたのである。 |
△卯の花 春に芽吹いた葉はさわるとざらつき、晩春から初夏にかけて、よく分枝した枝先についたたくさんのつぼみが次々と開いて、白い5弁の花が花の重みでしだれた枝をおおいます。 花の名は、旧暦で4月(今の5月)の卯月(うづき)に花が咲くことから名づけられたとも、空木の花(うつぎのはな)の中間が略された呼び名ともいわれています。 |