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10月号 2022年
伊藤伊那男作品 銀漢今月の目次 銀漢の俳句 盤水俳句・今月の一句 彗星集作品抄 彗星集選評 銀漢賞銀河集・作品抄 綺羅星集・作品抄 銀河集・綺羅星今月の秀句 星雲集・作品抄 星雲集・今月の秀句 伊那男俳句 銀漢の絵はがき 掲示板 主宰日録 今月の写真 俳人協会四賞受賞式 銀漢季語別俳句集 |
伊藤伊那男作品主宰の8句 今月の目次銀漢俳句会/2022/10月号
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奥州三関の一つ、白河の関は五世紀頃設けられたとされ、平安時代末期には所在不明となっていた。江戸時代中期、白河藩主松平定信が調査し、今の位置に比定された。ということは芭蕉の『おくのほそ道』の頃は今の形ではなく、おおよそこの辺りという感じではなかったかと思う。私ごとだが、先日初めて訪ねた。今もこの句と同じく山奥の農村地帯であった。芭蕉が杖を曳いたのはこの句とは季節が違って早苗時である。(平成六年作『曉紅』所収) |
彗星集 選評 伊藤伊那男伊藤伊那男・選胃の腑までつづく素麵流しかな 深津 博
曝す書にされど我らが日々もあり 坂下 昭
峰雲を背負うて歩荷尾根下る 伊藤 庄平
河童忌の天の揃はぬ洋書かな 谷岡 健彦
馬の目の山河は濡れて晩夏なる 堀切 克洋
山開き冨士塚になき三角点 星野 淑子
梅雨晴間とて七島は見えぬまま 山下 美佐
長椅子を外に床屋の夕涼み 朽木 直
押寄せる荒磯の香り夕端居 伊東 岬
得度せし貌のやうにも羽抜鶏 山元 正規
人毎に挨拶交はす帰省かな 中野 智子
大の字のいづれも崩れ夏座敷 宇志やまと
野晒しの石屋の石や夏蓬 清水 史恵
滝びらき滝音たかくなりにけり 坂口 晴子
子は親を凌ぐ高さに雲の峰 中島 凌雲
走り根は男の歩幅夏木立 西田 鏡子
手花火の終はりはいつも唐突に 多田 悦子
恐山ひとつ重ねて旱石 白井八十八
竿売りの声は空耳昼寝覚 岡城ひとみ
利根川の水源として雲の峰 山下 美佐
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伊藤伊那男・選
母の日に取って付けたような父の日はついつい忘れられるものだ。そういう句は沢山ある。だがこの句のように一歩踏み込むと、新しい味わいが出るものだ。死んでから父の日が特別なものになる。「よく忘れしが」が抒情の余韻を深く残している。 |
将門は一代の風雲児。当初は一族間の領地争いを繰り返していたが、最後は朝廷への反逆者となった。死後怨霊となり、今は神田明神に祀られている。その後の鎌倉武士団の先駆け的存在として崇敬されている。句は常陸の国であろうか。暴れ川の取合せが将門の生涯と重なるのである。 |
京の夏の料理を代表する鱧は、もっぱら祭鱧とも呼ばれて祇園祭とセットで詠まれることが多い。一方この句は法事の直会の席。確かに祭の時ばかりに出されるわけではなく、このような席にも出るし、精進料理とも違和感が無い。京都を熟知した人の鱧の句だな、と思う。 |
壇ノ浦の戦いの場面の菊人形なのであろう。義経の八艘跳びは有名だが、沢山の菊の花を豪華に纏った義経は、とても跳べそうには見えないという。不思議に思うこの感覚、興味の持ち方が俳句の発想の原動力である。 |
かき氷の代表格が宇治金時。抹茶を振り掛けてあるので緑の山のように見える。上の方から匙を入れて食べ、七合目位までに減った状態なのであろう。かき氷を実際の山と見立てて少し減った状態を楽しく詠み止めている。 |
「真っ赤な噓」という言葉がある。噓にもいくつかの色があるのだろうか。太宰治であれば様々な色の噓をつけそうに思う。だが結局自分の噓に自分が傷付くというのが太宰治である。 |
自分の思いを一物仕立てで一気に詠み切った気持のいい句だ。故郷を離れた者の多くが共感できる句だと思う。私もこの句を見て信州の山河やはらからを思い出した。 |
千葉県流山には一茶が何十回も訪ねている。当時盛業であった味醂の醸造元、秋山双樹が門弟で、一茶の為の部屋も用意して歓待したのである。この句のうまさは、双樹という固有名詞である俳号と、夏木立を合わせたところである。夏木立の頼もしさとの重ね方は美事という他はない。 |
バスに乗せて遠くの集落へ夕刊を運ぶ。夕刊が座席の一つを占めているのである。同じバスに乗って自分たちもその集落の宿に入る。このささいな発見が楽しい。 |
海の家の一景を鮮やかに切り取っている。客が持ち込んだグラビア雑誌は良質な紙を使っているので、日差しを撥ね返す。海の家という光に満ちた中のグラビア雑誌の表紙は更に光彩を放つ。光の饗宴である。 |
絶対に本人に届くことはないのだが、岸壁から声援を送る。届かないと解っていても声を振り絞る。作者はそうした矛盾を見逃さない。祈りの声なのである。 |
確かに地図に見る等高線の狭い所は急峻である。実際に登山をしているとそんなことには思いは至らないのだが、地図との組合せを俳句に持ち込んだのが手柄である。言われてみれば当り前だが、今まで詠まれなかった発見がある。 |
鳥獣草木一切、生きとし生きるものは水に支えられている。人も例外ではない。それをわざわざ言ってみせたところが面白いのである。人の驕りは許されないということを思う。同時出句の〈白といふ色にも数多七変化〉もよくよく観察の効いた句。対象物に目を凝らしているのだ。 |
その他印象深かった句を次に
三伏とは夏至のあとの庚(かのえ)の日を言い、初伏・中伏・末伏の三つの総称。庚は金気を表し、金気が火に伏せるというところから出ていて、酷暑の激しさと捉えている。中国では伏日は万鬼が行くとして物事を慎む風習があったという。俳句では、大暑、酷暑、溽暑、炎暑と並んで、暑さを表す象徴的な季語である。掲出句では、この時ばかりは昼の月が溶けかけているようにも思えるという。類形のない、実感のある比喩である。 |
冷蔵庫が発達する前は飯櫃を冷暗所に置いても、飯が饐えてしまうことが度々あった。食糧不足の時代でもあり、また米を無駄にすると罰が当たると言う時代であり、我慢して食べたり、洗って食べたりもしたものである。句にあるように雨漏りも日常的なものであった。そんな時は盥や洗面器で受けたものである。昭和三十年代、経済成長と共にこれらは解消していくのである。句はこの二つを重ねたところで実感を深めたようである。同時出句の〈饐飯や木曾のわつぱと須(す)可(てつ)捨(ちま)焉(おう)乎(か)〉も面白い作品。饐飯の匂いの付いた容器ごと捨ててしまおう、というのだが、曲木製のわっぱと童(わっぱ)が音で重なるところも面白く、竹下しづの女の〈短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎〉を換骨奪胎した軽妙さ。 |
通夜と祭という相反するものの取合せだが、人の世とはそうしたものである。通夜の悲しみの席にも祭笛、囃子は届く。悲喜こもごもなのが人間の世界である。変った取合せだが、妙に実感も深く抒情もある。同時出句の〈涼風や二つ重ねの宿枕〉も「二つ重ね」が上手いところで、情感を深めている。 |
子供心に夜店というものは別世界であった。楽しくもあったが、夜の神社の参道などでは怖くもあり、親の手を握って離さなかったものだ。「隣合せ」がうまい。 |
安全を願う祝詞を称える神官の沓が砂に傾ぐ、と実に細かな目配りができている句である。観察の正しさである。同時出句の〈カルデラの底に集落青芒〉〈時計屋の何れも正しく油照〉も「物」をきちんと見ている人の句だ。 |
これは今日でもありそうな光景である。単身赴任の寮で一人の御飯を炊いたのであろうか。夜勤明けで小腹が減って、残りの御飯を見ると少々饐えた匂。捨てるのも口惜しいし、洗って食べるか‥‥というところである。 |
亡妻の残した香水瓶は、使うこともないのに、捨てるわけにもいかず置いたままである。蓋に錆が出てきたというのだから、ずい分時を経たのであろう。見る度にその歳月を思うのである。私の部屋にも妻の残した香水瓶がある。多分減ることもなく、十七年が過ぎようとしている。 |
面白い発想の句である。一日生きるために汗をかく。一年を乗り切るために汗をかく。人はそのように暮らしているのである。「この齢を」の齢が眼目で、老齢の身をなだめなだめて暑い季節をやりすごしているのである。 |
鱧を最も好むのは京都。水揚げの多いのは兵庫県、徳島県、大分県など。生命力が強いので生きたまま京都へ送られる。それを「上京を待つ」と擬人化したのがこの句のおかしみである。これは最近京都の料理店で耳にした話だが「韓国産が一番旨いんです。内緒だけど‥‥」と。 |
残念ながら東京で天の川を見る機会はほとんど無い。その見えない銀河を俳句にしたのがこの句で、なかなかの味わいである。ほんの少し見えるときもあるが、大きな帯として眺めることはできない、というのを「大河となれぬ」と短い言葉に纏めたのは無駄なく要点を突いた表現である。「東京の」の打出しもよく、地名が動かない。 |
私も子供の頃何度もやってみたが、たいがいこんな結果であった。草の苦みが残るばかり。このようなありのままの、はからいの無い詠み方もいいものだ。 |
伊那男俳句 自句自解(81) 英霊の席空けておく花筵
学生時代は法学部政治学科にいたこともあり、政治への関心が無かったわけではない。当時各大学で頻発していた学園闘争やベ平連の活動には同調できず、茶道会とは別に国防研究会にも入っていて、どちらかといえば三島由紀夫の思想に共鳴する方であった。靖国神社にも参拝した。その件はさておき、神社周辺は桜の名所でもある。ただ、靖国神社も境内で酒を飲むことには私には躊躇いがある。飲んでいいのは親族を戦争で失った方々や、戦争で生き残った方々が戦友を偲んで酌み交す場合であってほしいと思っている。そういう方々に境内を使ってほしいと思っている。そんな思いがあったので、席題で「花見」が出たときに思い付いた句である。現実に席を空けておかなくてもいいのである。国のために死んでいった人々に献杯をする思いを持っていたいものだと思う。私の叔父も東京商船大学を卒業した最初の航海で浅間丸に機関士として乗船し、フィリピン沖に沈んだ。 年賀状書きかけのまま父逝けり
父は苦学して医学専門学校を出て、郷里信州で開業し、我々3人の子供を育ててくれた。数年前に帰郷した折、私の小学校時代の同級生だったという人が訪ねてきてくれて「伊藤先生(父)に命を救ってもらって自分の今日がある。先生の替りに君にお礼を言いたくて……」という。氏は瀕死の状態で父のところに担ぎ込まれ、父がペニシリンの注射を打ったという。「それで助かったが結局治療費は払っていないままだ」と言う。父は貧農の出身でったこともあり、その頃生活に追われている患者さんには治療費の催促はしなかったようだ。その父は82歳の時、夜中に来た急患を診療中に脳梗塞で倒れた。半身不随のまま信州で暮らしていたが、介護していた母に認知症が出たため、八王子の兄の家の近くの施設に移り、平成18年、91歳で死んだ。多摩の墓地を求め、49日の法要と納骨をする前日、私の妻が死んだ。何とも厳しい年末年始であったことか…… |
7月 7月10日(日) 久保田万太郎を調べる。夜、杏一家来て、私の誕生日をしてくれる。犬のバニラが丁度この日が誕生日にて合同誕生会。家族の関心はバニラに。 7月11日(月) 4時45分、中央道深大寺バス停に北原泰明君の車を待つ。松本から安房峠を抜けて飛騨高山白川郷を横に見て「白山白川郷ホワイトロード」に入る。白山を見る。残雪を見る。「ふくべの大滝」を見る。昼、勝山へ。手打ちそばの「どうせき」にて越後蕎麦。白山平泉寺跡へ。泰明君は車の中。1時間ほど発掘復元地など巡る。苔が美しい。汗だく。勝山城跡をちょっと見て、朝倉氏の一乗谷城跡へ。復元の町並み、朝倉館跡など巡る。泰明君は車の中。17時過、福井市の「ホテル東横イン福井駅前」に入る。福井城跡を巡る。本丸だけ残り、県庁に。泰明君はホテルの中。ホテル近くの「はやし」に入り、泰明君を呼ぶ。刺身盛合わせ、へしこ、げんげ干などで日本酒「黒龍」を。泰明君は酒を飲まないので焼きおにぎりなどを食べている。別れて少し町を歩き「つるき」本店でおろし蕎麦と酒。22時就寝。 7月12(火) 7時出発。三国、東尋坊経由で吉崎御坊跡、参拝。資料館で説明を受ける。北陸道で金沢、富山を抜け上越。上杉謙信の春日山城跡へ。3度目の正直。本丸跡に辿り着いたところで雨。掲示板の細い庇の下に身体を入れて雨宿りするが止まず、濡れながら下山にかかるが「桑取道」という標の道へ入ったところ、迷路となり、結局、4、5キロにわたり山中をさまよう。隣の山に迷い込むなどして、また電波が届かず、泰明君に心配をかける。ようやく春日山神社に出て一安心。17時過、新発田の「月岡温泉 湯あそび宿 曙」に投宿。温泉にゆっくり浸る。夕食では蓴菜の澄ましが可。21時頃に寝てしまう。 7月13日(水) 6時起、湯。8時過出発。会津で東北道を降りて「白河の関跡」に向かう。関跡の空堀を巡っていて蛇と会う。鳥肌。「白河小峰城跡」見学。両方共、泰明君車の中。17時、西船橋で別れる。2泊3日、1,500キロの長駆。 7月14日(木) 郵便物の整理、返信。数句会の選。久保田万太郎についてのレジメ作りなど。到来のきんき五尾を煮る。 7月15日(金) 調布市「アカデミー 愛とぴあ」にて久保田万太郎についての講話2時間。全力投球。 7月16日(土) 「俳句てふてふ」の「俳人の風景」1本。片山一行句集『凍蝶の石』到来。落ち着いた装丁の良い句集。私が序文。NHKBSで祇園祭宵山の実況中継。 7月17日(日) 祇園祭中継を見る。キャベツと豚肉の味噌炒め。トマトと卵炒め、アスパラとハムのバターソテー。俳人協会第33回東北大会宮城大会の選句。応募約二千句。 7月18日(月) 桃子の車で有明。喫茶店で2時間ほどエッセイの構想や作句。13時、「ライオンキング」伶ちゃん出演日。大野田さん一家5人、大住さん来てくれる。あと小酌。あと新宿「思い出横丁」にちょっと寄る。 7月19日(火) 昼、神保町「新世界菜館」にて毎日新聞・今井氏と打ち合わせ。五目冷やし中華旨い。発行所にて選句その他、18時まで。「天為」発行所にて「火の会」11人。 7月20日(水) 「銀漢 夏の全国俳句大会」の選句。今日、初めて部屋のクーラーを入れる。 7月22日(金) 8時過の新幹線で米原。近江八幡で車を借りて永源寺、百済寺、太郎坊宮(阿賀神社)、新八日市駅舎など巡る。恒例の祇園祭メンバー。「ホテルルートイン東近江八日市駅前」泊。「くいもの屋阿♂(カオス)」という店。近江牛のステーキ佳味。あともう一軒。部屋で鮒鮓でまた。 7月23日(土) 9時出。万葉集の標野だろうという船岡山。「紫」の花を初めて見る。近江八幡へ出て日牟礼八幡宮、八幡堀を散策。車を返して京都へ。「イビススタイルズ京都四条」泊。中島凌雲君合流。宵山へ。11の山鉾全部巡る。祭衆との話、為になる。17時、「味どころ しん」で鱧、ぐじ、よこわの刺身など佳。再び宵山へ。桂説子さんと遭う。ホテルで小酌のあと南観音山の暴れ観音を見に再び宵山へ。23時半、実見す。今日、明日は半ズボンと下駄。 7月24日(日) 9時半発。四条河原町あたりで巡行十一基を全部見る。あと八坂神社に参拝し「京料理 志ぐれ」にて昼食と句会(3日間の九出し)。あと「京極スタンド」で小酌。凌雲君今日も参加。ここで解散。私は「からすま四条ホテル」へ移る。昔の職場周辺を散策。「錦湯」は6月15日で閉店と。鮎の塩焼2本買って部屋で夕食とし、大河ドラマを見ながら寝てしまう。 7月25日(月) 6時起。熟睡。「高木珈琲」。今日はどこということでもなしに町を散策することに。大谷祖廟の牧野家の墓、妻分骨の廟を詣ず。東山の裾を歩くこととして知恩院。あと吉田山、京大キャンパスを抜けて「進々堂 京大北門前」で一服。ずいぶん歩いた。バスで河原町へ戻り、14時前に「居酒屋 たつみ」。鱧のおとし、鱧皮、蜆汁、海老フライ他。更に「京極スタンド」。18時過の新幹線で帰宅。 7月26日(火) 4日分の郵便物の整理。数句会の選句などで午後となる。19時、谷中「スナック雪月花」。天野小石さんの日。清人、井蛙、文子、敦子さんなど。政三さんと8月の集いの打ち合わせ。 7月27日(水) 終日選句。山田真砂年さんから連絡あり、コロナ感染者増加により「こもろ日盛俳句祭」は中止と。到来の賀茂なすを肉味噌で。 7月28日(木) 13時、三田「丘の会句会」あと仲通りの「駒八」で行方克己、禅次、坪井、中西由紀、菊田わいんさんと小酌。 7月30日(土) 選句稿。花果、直、妙子さんへ送る。生雲丹到来。海鞘と合わせる。賀茂なす。 8月 8月2日(火) 彗星集選終えて9月号終了。午前中、「岩野歯科クリニック」で定期検診。「あ・ん・ど・うクリニック」。ここ2ヶ月で五キロくらい減量したのが効いて血糖値は正常範囲に。降圧剤も少し量を減らすことに。午後、二子玉川のワクチン接種会場にて4回目接種。若井新一さんの茄子到来。 8月3日(水) 若井さんの茄子、15個ほど焼茄子に(綱の上で黒こげに焼く)。糠味噌にも。「第57回子規顕彰全国俳句大会の選句。応募8,000句ほど有り。 |
△姫蔓蕎麦 ヒメツルソバは小さく金平糖のような愛らしい花をさかせます。その様子から、「ヒメ」とつけられたと考えられます。花の名前には「ヒメ」が付くものが多いです。植物界では、「小さい」という意味となります。 |