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11月号 2022年
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伊藤伊那男作品主宰の8句 今月の目次銀漢俳句会/2022/11月号
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山梨県竜王町(現甲斐町)に土井玄由という住職のいる端良寺という小さな寺があった。玄由氏は寺を継ぐのが嫌で、教職に就き、職場の女性と駆落ちをして東京に出て本屋になった。フジテレビに出入りして棚山波朗氏他と知り合い、社内句会に参加して盤水先生の弟子になった人である。その後寺を継ぎ、境内に掲出句の句碑を建立したのである。私も参加して仲間で先生を囲んで、この寺に一泊吟行をした折の句である。櫛形山が目の前であった。(昭和五十八年作『寒靄』所収) |
彗星集 選評 伊藤伊那男伊藤伊那男・選中二日置いて鐘鳴る原爆忌 飛鳥 蘭
境内に残るゆうべの夜店の香 鈴木てる緒
帰省子に思はぬ小ささ金次郎 笠原 祐子
風よりも音を生みけり扇風機 白井 飛露
挨拶は潜りし後に茅の輪かな 内藤 明
敗戦の日の喉を焼くコーラかな 谷岡 健彦
地芝居の子役そろそろ声変り 宮本起代子
もう一度風を起こして扇置く 岡城ひとみ
生身魂注がるる酒は断らず 多田 美記
新聞をめくるに重き残暑かな 曽谷 晴子
白玉や苦労話を楽しげに 福原 紅
帰省子の夫とまがふ生返事 三代川次郎
子ら帰り抜け殻となる蟬も吾も 島 織布
稲の花時計代りのバスが行く 小泉 良子
お風入れ通さぬ袖を素通りす 本庄 康代
迎火の消ゆれば夜風踝に 三溝 恵子
露ふふむものをあまたに比企ヶ谷 谷口いづみ
捕虫網新幹線のホーム駆く 池田 桐人
大の字になるなり眠る帰省の子 箕浦甫佐子
山の日や産土の山動かざる 萩原 陽里
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伊藤伊那男・選
三年振りに祇園祭が開催された。疫病退散を願うことから始まった祭が、疫病のために中断していたのは皮肉であった。この句は天には太陽が、いま四条通りには月鉾の山車が通過すると、日・月を並列させた意外な発想である。祇園祭は古来沢山詠まれているが、まだまだ新鮮な発想の句は出てくるものだな、と頼もしく思った句である。 |
沖縄に行くと今でも、明日は何々通りは不発弾回収のため何時から通行止め、という知らせがテレビに流れる。日常的な事なのである。訪ねる度に、今に続く戦争の歴史を認識しておかなくてはならぬ、と思う。それにしても海も空も明るい。驚くべき高さと幅の雲の峰がある。 |
確かに、年賀状と違って暑中見舞は、ばらばらに届く。それは皆が解っているのだが、このように俳句にすることができたか、というと詠めてはいなかったのである。そういう意味で、一つの発見があった句である。俳句は見馴れた日常生活の中から新しい発見をすることが肝要。 |
瑞々しい抒情のある句だ。キャンプファイアーが終わると、夜空は星の光に包まれる。皆の視線も星空を追うことになる。それを「我等は星の子に」と纏めたのだが、その発想は自在で豊かな詩情に溢れている。 |
確かにその通りなのだ。思い出してみると、下町は馬肉屋も蕎麦店も概して座布団が小さい。江戸の人口密度が高かったこと、江戸っ子が食べ物屋で長居をしないこと、などの伝統がその遠因かな、とこの句を見て思った。同時出句の〈抜け首の行灯廻る立版古〉も面白い句だ。立版古は今の飛び出す絵本のような物。江戸の粋な夏の遊び。 |
東京近辺でいえば奥多摩の御岳山、伊勢原の大山に今も僅かに講宿が残っている。昔からの料理が高足膳に載って供されるが、この句のようにいきなり今の食べ物が出されて驚くことがある。昔だって同じような変化があったのであろうが、古色を帯びた宿で作者は新鮮な思いをしたのだ。 |
私もずい分登山をしていたので、この句に実感を持つ。山頂の夜は上空ばかりではなく、目の行く所全てが星の中にある。これを「溺れる」と捉えたのは卓見である。山男冥利に尽きる風景で、ああ、私が詠みたい句であった! |
喪中になったとはいえ、百日紅の花は咲き続けているし、剪るわけにはいかない。場違いながら賑やかに花を付けている。そういう人間世界の都合と自然界との不一致がこの句に出ているのだ。その花がまた悲しみを深くする。 |
葛飾北斎の富嶽三十六景の一つ、神奈川沖浪裏のことである。これを暖簾にした店に入ったというのだ。「浪を分け入る」がうまいところである。あの富士山よりも高い波と、暖簾の二つを重ね合わせたところが卓越した技倆。 |
大南風の取合せのうまい句だ。タコ糸で盛り上がった肉を縛る。活力の源である。折から大南風の吹く季節であるから梅雨も明けて気分も高まる頃である。夏を迎える明るい気分が横溢した爽快感のある句となった。 |
心太が身体を貫く、とはなかなか大胆な発想だ。このように心太を詠んだ句は今まで見ていなかったように思う。今後心太を食べる時には思い出す句になりそうだ。 |
この句の芭蕉は季語であり、俳人の芭蕉ではない。そうでありながら、『おくのほそ道』の親不知辺りの芭蕉の姿が重なってしまうのである。「芭蕉揺る」の措辞は実に巧みな所で、不安な表情の芭蕉翁が彷彿する仕掛けとなる。 |
その他印象深かった句を次に
原爆忌の式典で飛ばした鳩が家に戻る。と、鳩の習性を詠んだのだが、「原爆忌」と取合わせたことで、常とは違う風景となる。原爆の落ちたその日、鳩も人も何もかも帰路に着くことはできなかった。帰る家も灰燼に帰したのである。日常生活がなくなった日である。淡々と詠んでいるが、それだけに読後に凄味が残る。同時出句に〈この月は命日多し盆用意〉〈合掌の腕むき出し広島忌〉があった。戦後七十七年、酸鼻を極めた歴史の記憶も風化していくものである。記憶の欠片であっても持っている方、その土地に知見を持つ方はいつまでも詠み続けていってほしいものだ。たとえ類形が有ろうが、無かろうが構わない。 |
式典を終えたあとの神官の列のあとを羽抜鶏が付き従っていくという。しかるべき規模と思われる神社の参道に、貧弱な鶏を合わせたのが俳味である。一種の風景の破調がこの句の面白さである。同時出句の〈直会に着替へし禰宜の夏羽織〉も本来の場面ではなく、少しくつろいだ時間帯にずらせて詠んだところが俳句的目差である。 |
果物の中で桃の扱いが一番難しいかもしれない。触ったところから熟み始めるので、生産者も大変だが、取り出す方も慎重だ。特に最初の一つ目は箱の隙間も無いので、この句のように不確かな指使いとなる。 |
白玉は糯米粉を寒晒しにしたもので、練って丸めて茹でる。浮き上ってくれば火の通った証拠である。句では、その瞬間をじっと待っている。手に持った箸の先も動かない。 |
仰臥していると風景が逆さに見えるかというと、実はそうではない。そう見えるような錯覚をするのである。だからこの句を読んで、なるほど、と思ってしまうのである。その騙し絵的な発想が面白く、感覚のいい所だ。 |
群馬県はからっ風が有名だが、夏は雷の産地でもある。毛野の霊峰といえば、赤城山、榛名山、妙義山‥‥。それらの山が雷を繰り出す。「毛野の雷」の纏め方がいい。同時出句の<遠雷の故旧のごとく近づき来>も「故旧」の措辞の斡旋に独自性がある。<連合ひを送りし同士氷菓食む>もいい味わいだ。 |
〈秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行〉がある。気配で感じ取るというのが日本人の心である。この句では「音」ではなく「軽さ」を感じ取ったというのである。その軽さを身に纏った、というところに上質な抒情が滲み出るようだ。 |
私も長い間、ワイシャツと背広の生活をしていたのでこの句は良く解る。今とは違って、真夏でも長袖のワイシャツにきっちりネクタイを締めていたものだ。企業戦士の軍服であった。夏こそ気を引き締めるために糊を効かせていたのであろう。秋の気配に少し気を揺めた所である。 |
高原の牧場の一景を、まるで四季派の詩人のように美しく詠んでいる。夏の木を「牧夫のための」としたのが独自の表現である。同時出句の〈青山椒煮て曇り無き硝子窓〉は青山椒のすがすがしさ、独得の香を「曇り無き」に繫いだのが手柄である。いい感覚がある。 |
薪能は火と闇の祭典。羽衣の衣装に炎の色が映える。天女の飛翔に使った衣であるだけに、読後に様々な想像が過るのである。同時出句の〈海の泡閉ぢこめて居る心太〉はたまたまできてしまった泡からの発想であろうが、信用させられてしまう説得力を持つ。 |
鎌倉あたりの嘱目であろうか。蜩は秋の蟬で、夕方などは、ああ、これから日に日に秋が深まっていくのだな、という哀愁を感じさせるものである。この句は「透き通る」の押え方がいい。透明感のある鳴き声が谷戸に染み込む。 |
伊那男俳句 自句自解(82) 久女忌に妻の忌日の加はれり
妻の誕生日は十二月二十八日で、前年五十五歳になって一月足らずの一月二十一日に死んだ。杉田久女の忌日と同じであることに後日気が付いた。癌の末期であったので高輪の病院の個室を借りて、治療は痛み止めだけにして貰って、私は神保町の居酒屋の仕事を終えると終電で病院に入り、ソファーベッドで寝泊りをした。妻が死んだのは雪が降り出した午後であった。遺体を乗せた車は新婚時代を過ごした広尾の家の前を通って杉並の家に戻った。その時の句に 凍蝶といふさながらに妻逝けり
がある。私は野村證券に入社し、京都支店に配属されたが、その職場で妻と知り合った。結婚して三十年であった。葬儀を終えて一段落した頃の句に〈鬼やらふ妻なき家をおろおろと〉、〈妻呼べばたちまち春の星うるむ〉などの句がある。男というものは漠然と妻より先に死ぬものだと思い込んでいるものだ。それが反対になって戸惑ってしまうのである。 たんぽぽの絮吹き故郷遠くせり
妻の死ぬ一月ほど前に父が死んだ。父は長男であったが、町で医院を開業したので、生家は弟に任せていた。その敷地の中に、いわゆる屋敷墓があったが、弟に譲っているので、駒ケ根市の光前寺に墓を買った。それを聞いて私も同寺の墓を買っていた。父は脳梗塞で倒れたあと、兄の近くの日野の施設に入っていた。兄は後々のことを考えて、多摩動物園の近くに墓を買って葬ることになった。私の妻は私が墓を買ったとき「信州は寒いから嫌だわ」などと言っていた。それを思い出したので私も信州の墓を解約し、青山の梅窓院に葬った。父も妻も東京の墓地に入ったこと、また信州の家も空家になってしまったことなどで、信州が急に遠くなってしまったように感じたのである。十八歳で上京して、信州での生活の倍ほども東京に住んでいると、もう信州に戻るわけにはいかない。私も東京で死ぬことになるのだな……という思いの中で掲出句が出てきたのであった。 |
8月 8月4日(木) 17時、神保町「雷門 き介」。米国の青柳フェイさん帰国中で、天為の方々の仲間に誘っていただき歓迎会に参加。あと「魚勝」。 8月7日(日) 午後、浅草「神谷バー」。ロスの青柳フェイさんを「駒形どぜう」に案内。あと「ときわ食堂」。あと新宿、思い出横丁と、丸半日飲み歩く。 8月9日(火) 「子規顕彰全国俳句大会」の選送る。約8,000句にて、流石に延べ4日程かかる。伊勢の河合真如先生より「銀漢俳句会」に高額の基金頂戴したと。恐縮。夜、発行所にて「火の会」、9人。 8月10日(水) 俳人協会岡山県支部俳句大会の選。応募句800余句。 8月12日(金) 「馬酔木」同人評3回目。5,000字ほど。ヘアメイクの中川さんきて短くカットして貰う。 8月13日(土) 台風来。『三丁目の夕日』の「昭和の歳時記」エッセイ一本。 8月16日(火) 「銀漢」の選句続く。柴山つぐ子さん句集の2度目の選句など。羽黒山三光院の粕谷様より、だだ茶豆到来。 8月21日(日) 11時半、日暮里「夕焼け酒場」。清人さんと仕込み。政三さんの住む「富士見ホテル」がいよいよ取り壊しとて、前の広場でサヨナラパーティー。刺身、寿司。くさやを八枚ほど焼く。「富」「士」「見」で三句出し句会。結局21時位まで歓談。20数名か。 8月22・23日(月・火) 「銀漢」10号、各結社句会の選句など。農家の野菜買いに出た他は部屋に籠り切り。 8月24日(水) 朝、清人さん、焼津港に入った鮪漁船から入手の鮪を裾分けに寄ってくれる。今日はカマを焼くか。 8月26日(金) 午後、家族揃って庭で食事会。牛舌、ハラミなど焼く。野菜料理何種類か作る。「銀漢」10月号の選句その他、全部終了して一段落。 8月27日(土) 小林一茶について各種本調べる。9月の伊那の講演会用。このところ、到来の茗荷毎食。夕顔汁も。 8月29日(月) 昨日より家族は、数日鎌倉で夏休みと。昨日清人さんより連絡あり、今日、盤水先生の忌日と。昨年一緒に墓参し、今年も、と約束していたが、危うく失念するところであった。13時、高幡不動に行くと大和さんも来ていて、ばったり会う。三人で墓参。うどん店で小酌。といっても昼酒は効く。別れて仙川でまた……。 8月30日(火) 19時、日暮里「スナック雪月花」。天為の小石さんがママ。相沢文子さん誕生日とてケーキ持参す。スペインのカバで乾杯。(ヴーヴクリコは2年前5,000円位だったものが、現在12,000円の高値にて買えない……) 8月31日(水) 『神保町に銀漢亭があったころ』の1回目校正。360頁あり、1日かがり。懐かしく読む。帰宅後、岩波文庫『一茶俳句集』読む。 9月 9月1日(木) 午後、手が空いたので初めて赤羽に行ってみる。昼ながらあちこち酒場が開いていて、2軒ほど歩く。あと新宿にもついつい寄ってしまう。歌舞伎町の「もつ焼きカミヤ」は30年振りか。店の様子はほとんど変わっておらず、ガツ刺などの味も佳。 9月2日(金) 「足立区俳句連盟」へエッセイ一本送る。山田春生氏逝去とて、「春耕」へ追悼文。夜、家族の友人のあゆちゃん、杏一家が来る。あゆちゃんは肉を食べないので、清人さんから到来のキハダ鮪半身を刺身、胡麻和え、三つ葉和え。いんげんの胡麻浸し、糠漬けの茗荷、胡瓜の梅肉和えなどでもてなす。 9月3日(土) 『三丁目の夕日』の「昭和の歳時記」エッセイ送る。あ・ん・ど・うクリニック。「銀漢」10月号の校正。岩波文庫『井月句集』読み直し。 9月4日(日) 「一茶と井月」についての講演会内容詰める。若井さんの茄子再度到来。15個程焼きなすにしてストック。嬬恋村からの夕顔煮る。 9月5日(月) 一茶・井月の講演資料まとめる。松山の子規の俳句大会、二重投句や類句取消しなどあり、2度目の調整。調布の講話の杉田久女について調べに入る。 9月6日(火) 12時、発行所。『神保町に銀漢亭があったころ』の校正会議。武田編集長、洋征、秋葉男、悦子さん。途中から堀切君が加わり、たっぷり五時間。あと武田、洋征さんと近くの餃子屋で歓談。別れて「魚勝」で一杯。 9月7日(水) 杉田久女についての資料渉猟。作句。 9月9日(金) 9時35分、新宿バスタ発高速バスにて伊那へ。13時着。喫茶店「門」にて小休止。高校生の頃から変わらない店。「井月生誕200年祭 井月さんまつり」にて、一茶と井月の講演。仙醸酒造の黒河内靖会長(ゼミの先輩)が会いに来て下さる。あと「角八」にて親睦会。北村監督、平沢事務局長、小澤實、相子知恵、西村麒麟さん。「銀漢」は大野田、政三、まほ、有賀理さん。北澤一伯さんも来てくれる。泊りは「伊那パークホテル」。あと、井蛙さんの同級生経営のスナック「パートナー」。12時過ぎ。 9月10日(土) 快晴。「かんてんぱぱガーデン」散策。グリーンファームにて茸の塩漬け他購入。美篶から高遠をドライブ。午後、「いなっせ」の「井月さんまつり」に参加。小澤實さんの講演など。終って飯田線で辰野。鯉料理の「鯉店小坂」へ。洗い、鯉こく、旨煮、鰻の白焼でこの町の酒「夜明け前」。折しも名月の日。辰野駅で電車を待つ間、また車窓からもじっくり楽しむ。伊那へ戻ってまた「パートナー」。小鮒の煮付け、栗の渋皮煮など佳。今日は興が乗ってカラオケ……また……。 9月11日(日) 伊那市主催の「井月俳句大会」(事前投句は選)は参加を失礼して、飯田線で飯島町へ。沿線懐かしい風景。伊那市駅と飯田駅だけに駅員がいて、あとは無人駅になってしまった。飯島陣屋(復元建物)を訪ね、1時間ほど見学。町で開いているのはラーメン店1軒のみ。冷やし中華の朝昼兼用の食事。1時間以上駅で飯田線を待つ。15時過ぎ、伊那に戻り「門」にてビール! 塩烏賊と胡瓜、小鮒煮など。酒(夜明け前)。井蛙さん合流。急ぐ旅ではないし、もう一泊しようという事になる。「高遠句会」の守屋明、坂下昭、福沢(旧松浦)さんに連絡。「羅針盤」という居酒屋で歓談。あともう1軒。水争いの歴史や焼餅祭の話など面白く聞く。 9月12日(月) 快晴。9時過出。高遠句会の坂下昭さんの家訪問。井月の直筆句を拝見。父上の本。岳父氏の句集戴く。南瓜、じゃが芋、薩摩芋戴く。近くの同期福沢さん(旧松浦)訪問。茗荷、モロヘイヤ、胡瓜、オクラなど戴く。高遠に出て「高遠そば ますや」で久々、高遠蕎麦三種。佳。家まで井蛙さんに送って貰う。実にいい旅。色々な方に感謝! |
△ブーゲンビリ トロピカルで南国らしさ満載の植物ブーゲンビリア。オシロイバナ科ブーゲンビリア属の常緑つる性植物です。中南米の熱帯が原産地の低木で、生息地では年中咲いています。そのため寒さに強いのですが、真夏の暑さと乾燥には弱いのが特徴です。 |