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5月号 2023年
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伊藤伊那男作品主宰の8句 今月の目次銀漢俳句会/2023/5月号
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平成四年六月、俳人協会友好訪中団顧問として、北京・杭州・蘇州・上海を巡った折の句である。今現在の中国との政治状勢では考えられない文化交流があったのである。この旅の句は二十句ほどが句集に収録されている。掲出句は北京郊外の八達嶺付近での嘱目。青胡桃の実る農村地帯の指呼に聳える万里の長城は翼を広げて今にも飛び立つ天馬のように見えたという。長城の威容が具体的で、この国の酷烈な歴史が偲ばれるのである。(平成四年作『曉紅』所収) |
彗星集 選評 伊藤伊那男伊藤伊那男・選荒事に春著の集ふ木挽町 本庄 康代
伊予柑剝くふるさとの香のしぶき立て 武田 花果
ぽつねんと春待つやうに子規の卓 笠原 祐子
かまくらを覗くかつての童たち 小野寺清人
箸墓古墳の底見てきしか鳰の顔 渡辺 花穂
ファスナーの嚙んでいよいよ悴みぬ 多田 悦子
着ぐるみを脱ぐやうに着ぶくれを解く 松川 洋酔
亀鳴くや問診表に嘘少し 塚本 一夫
軒下の肥料袋や寒の明け 山﨑ちづ子
武甲嶺は銘仙もやう春の雪 大溝 妙子
都恋ふ飛梅の香やとこしなへ 矢野 安美
何もなきところで転び絵踏寺 堀切 克洋
春風や飛び箱一段上げ得たと 松浦 宗克
身震ひしゴム風船の萎みたる 杉阪 大和
筆圧で不安を潰す入試かな 小林 美樹
葉脈のやうに凍滝流れをり 片山 一行
春光やオールの飛沫虹となる 島 織布
冬の滝細々として音の鋭き 多田 美記
咳込みぬ鶯餅の羽ばたきに 白井 飛露
渡り漁夫かつて学生運動家 中村 孝哲
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伊藤伊那男・選
一読張りのある句だ。高々と鳴く鶏の声を聞いて、寒卵を産んだのだな、と思う。子供の頃卵は高価だったので、どこの家でも鶏を飼っていた。鶏が親しい存在であった頃の、鳴き声で知る寒卵である。 |
庖丁を垂直に立てて仕舞うという、ぞくっとする感覚と、「寒の月」という冷たく冴え返った感触、その語感の固さが相俟って、鋭利な仕上がりの句となった。 |
山は高さで競うものではない。思いの深さで決まるものだということが解る。古代には山には神が宿ると信じられていたのである。その山に育まれた人達の正月の行事が温かく詠まれて、心が洗われる心地の句となった。 |
諏訪大社の上社前宮に御(おん)頭(とう)祭(さい)がある。明治に入るまでは、七十五頭の鹿の生首や雉子、鯉などを捧げた記録が残っている。縄文時代の雰囲気が濃厚である。「魚氷に上る」という暦の故事と土俗的な祭事を重ねた深い味わい。 |
私の知っている種物屋は廂の深い古い商家で薄暗く、人の気配がしないという雰囲気であった。呼ぶと奥から人が出てくる。そんなことを思い出させる。信頼感で結ばれていた地方の一時代前の町の様子が偲ばれる。 |
「三寒四温」という気象現象を絵具の寒色と暖色で書き分けた楽しい句である。人の心は天気で支配されることが多いので、おのずから写生会での絵にも色使いに違いが出てくるのであろう。花穂句はこの違いに食物で迫っている。三寒には熱い汁を張った饂飩、四温にはたとえば菜の花のスパゲッティ、といった感じか。両者とも視覚や味覚を組み合わせて楽しい句に展開している。 |
「てっちり」という言葉はやはり大阪である。東京ではふぐ鍋とかふぐちりと言う方が多いようだ。やはり鰒は大阪。この句は「世話物」というのがまたいい。加えて「なにやかや」にいかにも大阪のおばちゃん達のお喋りが沸き立ってくるようだ。大阪の喧噪を活写している。 |
人の恋心と社会秩序を維持するための道徳はいつも相反するもので、恋も物語もそこから生まれる。神様だって道に背く恋を残しているのだ。「仏罰を恐れぬ」が逆説的で面白い。康有句は、高位の官職の和歌であろうが、歌留多取りでは容赦なく撥ね飛ばすという痛快な句。 |
元旦には儀式として漆塗りの器などで祝の酒を酌むが、そのあとは大きな徳利で注ぐ、というのが酒吞みの作法。「大きな尻」と焦点を絞ったところが俳諧味で、胡坐をかいてくつろぐ様子がよく出ている。 |
星座にはギリシャ神話の神々の名前が付けられている。各々の星座に古代の物語が秘められているのだが、それを「星座よりこ(・)ぼ(・)れ(・)」としたのが詩心である。 |
大和三山であろう。畝傍山をめぐって耳成山、香具山が争ったという伝説が万葉集に詠まれているが、たいして標高差の無い低山である。伝説の山も今は等しく冬夕焼の中。恋の伝説を下敷にして抒情を醸し出している。 |
雪の重みも加わってか、通夜の家はその柱まで泣いているようだ、という、詩情の濃い詠法である。「べし」の表現がうまいところで、泣くべきである、泣くのが当然だ、きっと泣くだろう、と擬人化に持ち込んだのが非凡である。 |
秩父の武甲山は古代から信仰を集めた神の山だが、海底が隆起した山で石灰岩でできていることが禍して、セメント会社に採掘され続けて変容している。この句は雪解け水も少し加担しているのではないか、という俳諧味。 |
その他印象深かった句を次に
菅原道真公は失意の内に太宰府で死に、その恨みは雷と化して京都御所を脅かした。怯えた朝廷は道真の名誉を回復し、更に神として祀り上げたのである。〈東風吹かばにほひをこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ〉は道真の代表歌で、天満宮といえば梅の花に象徴される。この句は道真への魂鎮めの句ということになろうか。平安期の典雅な和歌の雰囲気を句に盛り込んだのが手柄で、格調の高さがある。同時出句の〈余生よしまた立春の声を聞き〉の穏やかで前向きな姿勢にも好感を持った。 |
人の心と身体を支配するのは「気」である。病気、元気、気力などの言葉が象徴している。「天気」も自然界の気ということであり、人間を大きく支配している。冬はその気が衰えている時期であり、この句は呟きもおのずから溜息になるという。溜息はあたかも吹き出しのように白息になるという。冬場の心の動きが巧みに描写されている佳句。 |
昔は温泉地ではお決りの娯楽に射的場やヌード小屋などがあったものだ。今も射的場が残っているのを見ると何だか涙ぐましく、郷愁のようなものを感じるものである。冬の温泉地は客が散策することも少なく暇を託っているのであろう。「春待つや」の季語がこの様子を実感を持って伝えているようだ。 |
コンペイトーはポルトガル語で、戦国時代に日本に入ってきたもので、織田信長に献上されたという。あの角の作り方も実に不思議だが、さて角は一体いくつあるのだろうか。明るい色彩であることからも春に相応しい菓子であり、「立春の」の季語の打出しがよく効いている。 |
私の育った信州では普通の家でも鶏を飼っていたものだ。朝卵を採りにいく。あの頃、私の記憶では中華そばが三十五円位で、卵は一個十円から十数円であったから極めて高価なものであった。「卵ぬくぬく」はその時の喜びをよく伝えている。雪催の日などは尚更であった。 |
歌人の忌日季語で俳人の好むのは、西行忌、啄木忌、そしてこの実朝忌であろうか。死に方が劇的であったことが一番大きな理由であろう。確かに辞世の歌を詠む暇は無かったのであるが、それを句に詠んだ例も無かったことが面白い。ちなみに寿福寺に矢倉墓があるが、将軍の墓としては淋しいものだ。 |
私の子供の頃は電気毛布などは無かったから、埋火にした炬燵に蒲団の端を入れるとか、湯たんぽか、のどちらかであった。あの頃の蒲団は重くて冷たかったものだ。とりあえず足の裏に触れた湯たんぽは実に至福のものであった。湯たんぽに発して徐々に身体に暖かさが広がっていくのだが、まさに初めは「足裏のみ」の浄土であった。 |
電気炬燵なのであろう。移動可能である。抜け出すのが嫌なので、炬燵ごと物に近づいて取る。まさに物ぐさ太郎に近いのだが、自分にもそんな覚えがある。 |
このような子育てをしたに違いない、と信じさせる実感がある。一昔前は家の中でも居間と風呂以外は寒いものであった。子供の無邪気さと親心のせめぎ合いが好もしい。 |
あの頃の給食は酷かった、という人がいるが、私はほとんど不満が無かった。むしろ有難く嬉しいものであった。小中学校が一緒の敷地にあり、団塊の世代が中心なので多分四千人位に給食を出していた筈である。その中でも季節の変化を汲み取ることができたのだ。「春兆す」の実に珍しい観点の佳句。 |
一読愉快な句だ。夫を鬼役にして思い切り豆をぶつけてやろうという魂胆である。「夫に |
松本たかしの〈チチポポと鼓打たうよ花月夜〉の本歌取りで、このあとの情景へ繋いだ、という感じであろうか。花冷えの頃のとりとめのない情感を伝える典雅な句。 |
伊那男俳句 自句自解(88) 或るときの家族の数の福寿草 歳時記で正月の植物の項を見ると、十六種が立項されている。だが、歯朶、楪、野老などの正月の飾りに添える植物や七種粥に使う野草が中心で、鑑賞する花はというと福寿草一つだけである。何といっても福寿という名称、黄金色の花が正月にふさわしい。もともとはキンポウゲ科の野草であったが、江戸時代より観賞用に栽培され、園芸種が多く作り出された。鉢に寄せ植えをして玄関や床の間に飾る。一花だけでなく複数の花が咲き揃うのが見処である。私の家は妻と二人の娘の四人家族であった。この句を作った頃に娘は嫁ぎ、妻は死んで一人暮しとなっていた。旅先で福寿草の鉢を見かけるとちょうど四つ開花していた。ああ、これは子育ての頃の家族の数であったな、と思う。花の位置にも高低があり、ひと塊りの家族のようにも思えてきたのである。和服姿の若かった妻、配膳を手伝う娘達の姿などが福寿草の花と重なって、しばし足をとどめたのであった。 寒林に入り散策は思索へと
子供の頃夕方になると一人で自転車を漕いで田園風景の中を走るのが好きであった。木曾山脈に日が沈んでいく。天竜川に大きく削られた河岸段丘の上に、往古、赤須城という城があったという。城といってもよく見れば土塁の跡かとおぼしき凹みがある程度のもので、灌木が茂っていた。葉を落とした幹の間から透けて届く夕日は美しいものであった。伊那谷は両側を三千米級の山脈に囲まれている。残照の中の赤石山脈の向う側に東京がある。もう少ししたらきっと東京に出て何かをして生きていくのだろうなと思う。何を求めて生きていくのだろうか、と少年の胸に様々な思いが去来する。散策はだんだん思索へと変わっていくのであった。もちろんこの句ができたのはずっと後のことであるが、そんな思い出が根底にあって一句に結実したものである。俳句は長いこと作っていると自然に身に付くのだが、散策の「策」と思索の「索」の韻を踏んだ表現は意識的に合わせたものである。 |
2月 2月20日(月) 「銀漢」4月号の選句続く。「井月忌の集い俳句大会」応募600余句の選句。「春耕新年俳句大会」応募500余句の選句。 2月22日(水) 「銀漢」4月号選句稿を各々担当へ送る。選評書く。ここ数日ずっと机にいる生活。夜、油麩と鶏の鍋。 2月23日(木) 彗星集選評を辻本理恵さんに投函し、4月号の執筆終了。孫の龍正君と二人だけの夕食。ケンタッキーフライドチキン。 2月24日(金) 一段落付いたので「あ・ん・ど・うクリニック」、薬局、京都行切符手配。渋谷の「鳥竹」他数軒梯子。 2月25日(土) 4月の信州行について兄、従兄と連絡取り合う。武田花果さんから退院したとの電話戴く。お元気に生還、よかった!「三丁目の夕日」の「昭和歳時記」用俳句エッセイ1本。「銀漢」5月号のエッセイ一本。「俳句てふてふ」の歳時記春の部、いづみさん選句の点検。伶輔君「ライオン・キング」100回出演。西村和子さんがお孫さんを連れて見に来て下さったと。戻ったところで褒美のステーキを焼く。 2月26日(日) 森羽久衣句集稿を見る。午後、日本橋「ここ滋賀」句会。「銀漢」の方々が来て下さり、15人ほどの句会。早めに着いたので、兜町などを散策。私の勤めていた野村證券本店ビルは解体中で三分の一位しか残っていない。終わった後、皆さんと居酒屋。成城に戻って「街かど酒場 さんたろう」で小酌。 2月27日(月) 朝の新幹線にて京都に向かう。富士山を拝す。シウマイ弁当。「静鉄ホテルプレジオ京都四条」に荷を預けて散策。「築地」のウインナコーヒーで一服。「たつみ」で氷魚の釜揚げ、独活の天婦羅、酢牡蠣、ビール、酒は「まつもと」。17時、「味どころ しん」にて和田ちゃんと落ち合う。ぐじ塩、皮剥の薄造り、鰊の煮付、くもこ、粕汁など。あと鴨川沿いの洋酒バー「セント ジェームス クラブ」でドライマティーニ。宿近くの「萬福」のラーメン。 2月28日(火) 「纏句会」の選句など。赤山禅院を目指して行くと修学院離宮が当日見学可能と! 前回、大雨で見学者が私一人。途中で戻ることになり再挑戦となる。近くの食堂できつねうどん。赤山禅院でのんびり過ごす。雲一つない快晴。14時から修学院離宮を見学。夕方また「たつみ」あと先斗町「居酒屋すずめ」。地元のお客さんと歓談。 3月 3月1日(水) 大津に出て、「大津祭曳山展示館」。園城寺からの湖の風景絶佳。「大津市歴史博物館」をじっくり2時間ほど。弘文天皇(大友皇子)陵など散策。旅を終える。 3月3日(金) 羽久衣句集稿再読して返却。18時、新大久保の「がんこ 山野愛子邸」。『曾良の正体』作者乾佐知子さんの招きで会食。一斗、「春耕」の蟇目、池内氏、草思社の番茶さん、編集の渡辺さん。 3月4日(土) 昼過、四谷「主婦会館プラザエフ」、「第10回井月忌の集い俳句大会」。3年振りに開催。70人程が集まって下さる。あと隣の中華料理店にて親睦会。30数名。懐かしい面々。 3月5日(日) 「銀漢」5月号のエッセイ他。「銀漢」4月号の校正。夜、近所のユウタさん一家来る。ユウタさんは蛸焼の名人。材料一切持参。私は酒肴数種用意。 3月6日(月) 「宙句会」10周年記念号の原稿読み、10周年に寄せて600字ほど直さんに送る。夕方渋谷。久々「福ちゃん」。大将が覚えていてくれて、「今日は休み?」「3年前に閉めたの」「趣味があるからいいね」と。奇妙な店だが、逸品を出す。蒸鮑、初鰹のニンニクポン酢。戻って成城の「街かど酒場 さんたろう」。 3月7日(火) 13時、「京王プラザホテル」。俳人協会総会。4賞授賞式。受賞者の謝辞が長い。 3月8日(水) 結婚記念日。48年前のこと。数カ所へ送金など。セロリのオイスターソース炒めなど。 3月9日(木) 調布「愛とぴあアカデミー」の講話資料作成。神代から万葉集までの詩歌の歴史について。行方克巳氏より「慶応丘の会」の本井英さん体調不調にて副会長辞任の申し入れあったので、小生に副会長後任をと。Tさん句集稿再読し返却。 3月10日(金) 「俳句てふてふ」「俳人の風景」の水原秋桜子書く。華子さん高校卒業式。 3月11日(土) 一昨日作った調布の講話の資料は四月用のものであったことに気付き、3月用に明治から大正までの女流俳人についての資料作成。今夜は家族出払っているとのことにて、駅前の「さんたろう」「城下」「小島屋」と梯子。「城下」の赤なまこ、蒸し牡蠣佳。お替り。 3月12日(日) 昨日酔った帰路、小田急OXで鰤の刺身半額で購入してあり、解凍した毛蟹の残り一尾と供す。 3月13日(月) 数句会の選句。郵便局、区役所出張所など雑用。到来の焼穴子で穴子丼。一昨日、半額で入手した鰤を西京漬にしておいたものを焼く。 3月14日(火) 今迄歩いた関東の城について整理に入る。夜、発行所にて「火の会」。10人。 3月15日(水) 17時から日暮里「夕焼け酒場」で高校同期の「三水会」があるので少し前に出て根津神社へ。洲崎パラダイスに移転前の根津遊郭がどのあたりであったか捜してみる。あとこれも何10年かぶりで団子坂を上り、「森鴎外記念館」へ。建物がすっかり変わっている。谷中銀座の八百屋で芹が安かったので買う。「三水会」7人。有賀理、まほさん来てくれて22時過ぎまで。 3月16日(木) 一斗さんが纏めてくれた「俳壇」の空想季語に遊ぶの選句。13時、三田の専売会館にて「丘の会」30数名。あと蕎麦の「朝日屋」にて、行方、武田、坪井さん他と一献。帰宅して野球、日伊戦を見る。 3月17日(金) 14時、調布の俳句講話。20数名。明治、大正の女流俳人について。あと竹内夫妻、宝田、井蛙さん等と「酒呑んで飯食って 蛙之介」。あと仙川の「汐○」、岡山の蒸し牡蠣他佳。「田酒」もあり。中古店で「ビクトリノックス」の時計の出物見付けて買う。竹内夫人より戴いた蕗の薹で蕗味噌たくさん作る。 3月18日(土) 雨、買い物。明日の「夕焼け酒場」の料理仕込み。蕗味噌のおにぎり、蓮根炒めの胡麻まぶし、砂肝の黒胡椒炒め、芹のおひたしの予定。 3月19日(日) 13時、日暮里「夕焼け酒場」、「銀漢亭の日」。24人集合。桜日和。「夕やけだんだん」はすごい人出。久々のマスクをしていない集まり。本行寺の加茂住職も来て下さる。3句出し句会」。清人さんの鮪刺身、焼きそば、蝦夷鹿の塩焼き佳。結局、21時まで。 3月20日(月) 快晴。数ヶ月振りに、自転車で入間町の農家の野菜を買いに。農家の方、皆さんお元気。富士山が見える。あと成城の桜並木を散策、今日で五分咲きといったところか。今年は華子高校卒業。龍生中学卒業。伶輔初等卒業と続く。 |
△ユッカラン リュウゼツラン科ユッカ(キミガヨラン)属。別名:アツバキミガヨラン(厚葉君が代蘭)。 公園など春と秋に花を見かけます。 葉は先端が尖り、別名のアツバキミガヨラン、「立派な、栄光ある」という意味がありそこから立派な名がつけられた。 原産地:アメリカ大陸原産。 1,596年にイギリスに渡り、日本へは明治中期に渡来した。 英名は「スペインの小刀」の意味、剣状の葉っぱに由来する。 中国名は「鳳尾蘭」で、「鳳凰」の尾のような形をした蘭という意味。 |